悲しい夜。眠れない夜。寝たくない夜。
さまざまな感情に飲み込まれそうになる夜にも、東京では美食がそばにいてくれる。
ディナータイムのあとに、自分を甘やかす“罪の味”。
今夜、あなたも味わってみませんか──?
Vol.1 <市子:東麻布のデザート>
「ねえ、市子。本当にそれだけで足りるの?」
麻布台ヒルズのヘルシーなレストランで、向かいに座った豪くんが心配そうに尋ねた。
「うん。もう19時半だし、これで十分」
そう言いながら私がフォークでつつくのは、小さなアート作品のようなサラダだ。
お皿はまるで白いキャンバスのように広々しているものの、サラダ自体の量はそう多くない。カロリーはきっと、豪くんの食べているチキンとパスタの半分にも満たないだろう。
実際、これだけでは食欲は満たされはしない。だけど、今から何か追加注文をしたのでは、確実に20時を回ってしまう。
「私が20時以降は何にも食べないの、知ってるでしょ」
「うん、知ってるけどさ。たまにはデザートとか食べてみる?とか思っただけ」
「だめだよそんなの。ギルティすぎる」
私の答えを聞くなり、豪くんはグラスに半分ほどだったビールをぐびっと一気に飲み干した。
お酒がまったく飲めない私には分からないけれど、きっと海外出張帰りの一杯というものは、相当に美味しく感じるものなのだろう。
― 豪くんの喉仏ってセクシーだな。それに、いっぱい食べるところも可愛い。
サラダを食べ終えてしまった私は、ひたすら豪くんの食べる姿を見守る。あらためて噛み締めるのは、彼が私の恋人であるという奇跡だ。
そう。豪くんは、私の恋人。そしてそれは私にとって、まるで夢みたいな奇跡。
いつまでも豪くんに似合う自分でいようと思うのなら、夜遅くにデザートを食べるだなんて行為は───“罪”としか言いようがない。
だから私は、20時以降は何も食べない。
これからもずっと、ずっと、豪くんのそばにいたいから。
高校の同級生だった豪くんが私が働くイベント会社に現れたのは、今年の初めのことだった。
「あれっ、廣田さんだよね?廣田市子」
「えっ。ご、豪くん…!?」
声が裏返るほど驚いてしまったのは、担当イベントであるキャラクターコンテンツの買い付けをしている商社に、豪くんが勤めていたということだけじゃない。
高校で同級生だった豪くんが。あの、豪くんが…。
“今の姿”になった私のことを認識してくれたことに、私は心の底から驚いたのだ。
「まさかこんなところで廣田さんに会うなんて、びっくりしたよ」
「豪くんこそ、一流商社マンになってるなんてびっくり!昔もかっこよかったけど、今はもっとずっと素敵になったね」
「褒めすぎでしょ」
豪くんはそう言って笑ったけど、私は大真面目だった。
高校時代の豪くんは、頭がよくて、みんなの人気者で、誰にでもすごく優しくて…かっこいいとしか言いようのない男の子だったから。
私が卒業文集に「将来の夢:結婚して幸せな家庭を築くこと」と書いた時も、豪くんは豪くんだった。
「いいね。廣田さんと結婚したら楽しそう」
豪くんはどんなキザなセリフでも、こんなふうに嫌味なくサラッと言えてしまうのだ。
もちろん、こんな言葉は私以外の他の女の子にだって言っていることは私にだってわかっている。だけど、まんまと豪くんに夢中になってしまった私は、それ以降、自分磨きに努力するようになった。
豪くんの当時好きな芸能人は、今や二児の母だがかつては名だたるティーン誌で活躍していた、かなり細身の有名モデルで、その理由を「細くてかわいいから」と言っていると、男友達から聞いたことがあったから。
メイクを研究して、仕草も可愛らしく。性格も社交的に。何より一番がんばったのは、ダイエットと体型維持だ。
甘いものや食べることが大好きで、もともとは少しぽっちゃりしていた私だったけれど、完璧なカロリーコントロールで努力をし続けた結果、ついには読者モデルとして雑誌にのったり、メイク系のインフルエンサーとして活躍することまでできた。
自分で言うのもなんだけれど、今の体型はかなり細いし、角度によっては豪くんが好きだった芸能人に似ていると言われることもある。
もちろんこのスタイルを保つためには、夜食やデザートなんて“罪の味”はもってのほかなのだ。
― もう、太っていて自信がなかった頃の私じゃない。だって、豪くんが私の人生を変えてくれたから。
26歳の会社員になった今でもそんな想いを胸に秘めていたところに、取引先の人間として豪くんが現れたのだから、その時の驚きはとても言葉では言い表すことはできない。
再会してからはこのチャンスを逃すものかと猛アプローチをし続け、その結果どうにかこうにか恋人同士になることができ、今日で半年になる。
半年経った今も、豪くんは優しい。ロスからの出張帰りだというのに、こうして「半年記念日だから」とディナーデートをしてくれるほどに。
― ああ、なんて幸せなんだろう。どうかこのまま、豪くんのおよめさんになれますように…!
食事を終えて神谷町の豪くんの部屋まで歩きながら、私は密かに神様にお願いする。
豪くんと一緒にいられるだけで、どんなスイーツを味わうよりも幸せでいられるのだ。
これからもずっと努力し続けるから、豪くんと過ごせる時間が永遠に続いてほしい。
本当に、心の底から、そう思っていたのに…。
◆
部屋について、しばらくしてからのことだった。
「俺たち、別れた方がいいと思う」
夜の口寂しさを白湯で紛らわす私に、豪くんははっきりとそう告げた。
「え…今、なんて?」
にわかには信じられなくて聞き返してみたけれど、豪くんの口から出てきたのは、さっきと同じセリフだ。
「俺たち、別れた方がいいと思うんだ」
「一応聞くけど…どうして?」
白湯のマグカップを置いた私は、冷静を装いながら理由を尋ねる。
取り乱さない理由は、私はもう、あの頃のぽっちゃりしていて垢抜けなかった“廣田さん”とは違うから。
元読モで、元インフルエンサーで、芸能人みたいにスタイルがいい、自信に満ち溢れた“市子”だからだ。
だけど…。
つぎに豪くんが放った言葉を聞いた瞬間、私の心はバラバラになってしまった。
「一緒にいても、幸せになれないから」
たった今、私が幸せを噛み締めている時にも、豪くんは正反対のことを感じていた。
こんなに悲しいことが、他にあるだろうか?
…これ以上豪くんから悲しい言葉を突き付けられたら、とても正気でいられる自信はない。
視界が真っ暗になるような絶望の中で私がとった行動は──ただ、豪くんの申し出を受け入れることだった。
「そっか。豪くんがそう思うなら、仕方ないね。今までありがとう」
精一杯いい女のふりをしながら私は、てきぱきと荷物をまとめて豪くんの部屋を後にする。
きしむような音を立ててドアが閉まってからは、しばらくのあいだ記憶がない。
気が付けば私は、暗く、広い道路の横で、呆然と立ち尽くしていた。
豪くんの部屋を飛び出したあと、一体どこへ行ったらいいのか分からないまま、夜の街を歩き続けることしかできなかったのだと思う。
背後には大きな東京タワー。前方には高速道路の高架。ガソリンスタンドの灯りだけが煌々と光っているこの場所には、何の見覚えもなかった。
すぐそばを通り抜けていくタクシーの風で、朦朧としていた意識が急激に現実に引き戻される。
― え?私いま、豪くんと別れた…?
信じられなかった。
憧れの人であり、私の恋人。
そんな男の子を、たった今失ってしまったのだ。
もしかしたら、泣いて縋りつくべきだったのかもしれない。だけど、「豪くんに似合う女の子になること」を目指してきた私には、弱い自分を見せる方法が分からなかった。
さらには、こんなとき───死んでしまいたいほど悲しいときに一体どうすべきなのかも分からない。
だって、ダイエットや自分磨きに挫けそうになった時も、心のどこかで支えになっていたのは、豪くんの存在だったから。
― こういうとき、お酒が飲める人はヤケ酒をするんだろうな。
大きすぎる悲しみに襲われた時、人間にはどうやら人ごとのように受け止める機能が備わっているのかもしれない。
妙に冷静な頭でスマホの地図を確認すると、今私が立っている場所は東麻布の片隅だった。
土地勘もあまりないため、バーがある場所も分からないし、そもそも私はお酒が飲めない。
またしても途方に暮れてしまいそうになった、その時。ふと、視界の端に不思議な看板が入ってきた。
― 『relevé dessert』…。デザート?
読み違えていなければ、目の前の看板には確かにデザートと書いてある。
そしてさらには、21時50分という遅い時間にもかかわらず、ガラス張りの店内には灯りがともっているのだった。
「いらっしゃいませ」
「あの…1人なんですけど。こんな時間からでも大丈夫ですか?」
「はい、ラストオーダーは22時になります。どうぞ」
店員さんの優しい声に導かれるまま、カウンターの席に座る。下戸の私はあまり経験がないけれど、店内はオーセンティックなバーと言ってもおかしくないような落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「えっと…」
半ば無意識のまま、灯りに引き寄せられるように入店してしまったのも、悲しみの底にいる人間の習性なのだろう。
それとももしかしたら、さっきのディナーで豪くんに言われた言葉が頭の片隅に残っていたからなのだろうか?
『たまにはデザートとか食べてみる?とか思っただけ…』
時刻は22時だ。とっくに20時を回ってしまった今、甘いデザートを食べるなんて罪は許されるわけもない。
だけど…。
― もう、豪くんはいない。痩せてなきゃいけない理由もないんだ。
豪くんに似合う女の子でいるために誘いを断ったのに、なんて皮肉なんだろう。
私には今、深夜のデザートを味わわない理由がひとつもなかった。
いわば、やけ酒ならぬ、やけデザートだ。
「あの…じゃあ、このアシェットデセールのチョコレートクレープっていうのをお願いします」
たどたどしい私の注文を受けて目の前で始まったのは、まるで魔法のようなひとときだった。
カウンター越しの清潔なキッチンから漂う甘い香り。優しい炎。繊細なナイフの動き。
アシェットデセールというのはフランス語で“お皿に盛り付けたデザート”という意味だと、優しげな女性シェフが教えてくれた。
「これ、何カロリーだろう?」
そんなつまらないことを一切考えずにお皿を迎えたのは、本当に久しぶりだったのだ。
そうして私の目の前に置かれたチョコレートのクレープは、私の知っているクレープとはまったく違ったものだった。
薄い生地にかかった、深みのあるチョコレートのソース。
そこに添えられたフレッシュなオレンジと、香ばしく燻製されたナッツ。
さらには温かなクレープと対をなす冷たいアイスクリームは、フルーティさも感じるコーヒーの酸味が爽やかで───。
夢中で食べ進めるうちに私は、とんでもないことに気がついてしまうのだった。
― 私…笑ってる。豪くんと別れたっていうのに、幸せを感じてる。
温かさと熱さが混在する甘さは、「罪の味」としか言いようがなかった。あまりにも、幸せすぎて。
豪くんがもういない悲しみは、簡単には受け止めることはできない。
だけど、ひとつのお皿の中に色々な温度が同居する深夜のアシェットデセールは、信じられないほど美しく優しい。
豪くんを失った悲しみを忘れるほどの甘美な喜びを「罪」と呼ばなければ、一体何が罪だというのだろう。
「──ごちそうさまでした。すごく、すごく…美味しかったです」
クレープをすっかり食べ終えてしまった私は、暖かな店内から真っ暗な外へと一歩踏み出す。
「こんな夜遅くなら、泣いても誰にも見られないよね」
すっかり緩んでしまった気持ちに、私は誰にともつかない言い訳をする。
秋の冷たい夜風が、濡れた頬の熱を奪った。
嗚咽が漏れ出る喉は、灼けるように熱い。
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豪との別れを受け入れた市子が、次に訪ねる「罪の味」は…?

