港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「今でもまだ好き?」別れて10年経つが、付かず離れずの元恋人に本音を尋ねたら…
「私が気になったのは、光江さんもおっしゃっていた、メグさんの“大好きだからこそ別れる”って言葉の真意についてなんです」
ルビーにこの場の進行を任されたともみは、そう切り出したものの、隣に座るメグのグラスが空いていることに気づいてそこで言葉を止め、ワインクーラーからアルザス・リースリングのボトルを引き抜き、栓を抜いた。
ともみの向かい側に座るルビーもその横に並んだミチも黙ったままだからなのか、白ワインを注ぐ、トクトクという音が、休日の、他に客のいないBar・Sneetにやたらと響く。
― 思ったことを言う。それがたとえメグさんを傷つけたとしても。
全員のグラスにワインをつぎ足しながら…ともみは覚悟を決める。
TOUGH COOKIESを続けてきた日々の中で、ともみには店での振舞いについて、自分に課した決まり事、そして矜持のようなものが生まれていた。まずは、店にやってきた客に対し共感し過ぎず、その言葉を肯定し過ぎないということ。
「あなたがいいならそれでいい」「つらかったね、よく頑張ったね」と、客の全てを肯定して肩を抱くだけでは、その時は「自分の気持ちや苦労が分かってもらえた」と思えたとしても、それは一時の慰めにしかならず、店を出た瞬間、翌日からはまた同じような日々が続いていくことになる。
― そんな店なら、意味がない。
TOUGH COOKIESという店は、ただ慰めを売る場所ではなく、変化を促す店であるべきだと、ともみは店を続けるうちに思い始めていた。店を頼ってきた客が、ほんの小さな一歩であっても――立ち止まってしまっていたその足を、前へと動かすことができるように。
そのためには、これまでの人生でともみが身に付けてきた…とりあえずその場で向かい合う相手を気持ちよくさせればいいというような、小手先の会話のテクニックなど通用しない。それは、ルビーの突拍子もない発言からも学んできたことだ。
損得勘定や自己防衛などの計算を取っ払い、本心から相手に向かい合う。言葉にしてしまえば至極当たり前に聞こえるそれらのことは、以前のともみなら――光江に出会う前は、意味のないことだと感じていたし、興味もなかった。
― なのに今は。
自然とその方法を選ぶ自分に驚きながら、ともみはメグに言った。
「大好きだから別れるっていうことが、相手のためなら――自分と離れた方が幸せになれると、相手を想うからこそ、自分の痛みを隠して別れを決意したというのなら、心からすごいなとは思います」
大輝を手放したキョウコの、あの静かな微笑みが浮かんだ。
「ただ…メグさんは違ったんじゃないかなって」
思わぬ名指しだったのだろう。メグはワインを注がれたばかりのグラスを口に近づけようとしていたが、それをソファーテーブルに静かに置き、姿勢を正すようにして体ごとともみを向いた。
「遠慮なく言わせてもらっちゃいますね」と微笑みながら、ともみは自分が少しだけ、緊張のようなものをしていることに気づく。
「メグさんの場合、自分も犠牲を払った風に見せかけて、ミチさんより仕事を選んだだけですよね」
ともみはあえてミチを見ることなく、続ける。
「メグさんの、大好きだから別れる、っていうのは、ただ、自分のためだった」
「…私の、ため?」
思わず漏れたようなメグの呟きに、ともみは頷く。
「だって、今は仕事を選ぶけど、あなたのことを愛しているのも本当。だから、いつか必ずあなたの元に戻るから、と言ったも同然じゃないですか?それを誰よりもミチさんの性格を知っているメグさんが口にした時点でそれは…気づかないふりをした確信犯だと思います。だから、“大好きだから別れる”って言ったのが違うんじゃないの?って光江さんが怒ったんだなって理解できるっていうか…私もそこは、光江さんの意見に賛成です」
「…そんな…つもりじゃ…」
呆然とともみを見つめていたメグの視線が、空を泳ぐようにミチに向かう。
「たぶん、誰にもミチさんを取られたくなかったんですよね?ミチさんが自分以外の人と幸せになるなんて、イヤだったんですよね?ミチさんはいい男だし、失くしてしまうのは惜しい。それはわからなくないですよ――でもね」
強くなったともみの語尾に引き戻されるように、メグがともみを見た。
「だったらきちんと、大好きだから待っていて、と言えばよかったんですよ。今は飛び立つけど、何年かかったとしてもあなたの元に戻るからって。それをなぜ正直に伝えられなかったんでしょう。きっとミチさんは待ってくれたはずなのに、メグさん、あなたは“大好きだから別れる”と言い逃げした。それってどうしてなんでしょうね」
メグは何かを言おうと口を開いた。けれどそれは言葉にならなかった。ここからは完全に私の推測ですけど…と前置きしてともみは続けた。
「メグさんは自分が戻ってくる約束をしたくなかったんじゃないですか?世界を飛び回っているうちに、日本で待つミチさんより大切なものがどんどん増えて、その生活が楽しくなる可能性を感じていた。ジャーナリストとしてのやりがいとか、世界で認められる栄誉とか、それが何なのかわからないけど、未来に目がくらんでいた。
だから自由でいたかった。だからプロポーズしようとしていたミチさんとの約束に縛られるのがイヤだった。違いますか?」
そんなつもりは…とまたも同じことをメグは呟いたけれど、その言葉に力はなく、ともみは胸を痛ませながらも止まらなかった。
「なのに大好きだから別れる、っていうのは、ずる過ぎますよ。自分から約束はしないけれど、ミチさんが自主的に待っているように仕向けたんですから。ミチさんに呪いをかけた、っていう光江さんの怒りもごもっともというか。
私にとっても、ミチさんは大切な…上司ですから。光江さんがミチさんを想うほどではなくても、ミチさんが悲しむ姿は見たくないし、傷つける人はムカつくし、幸せになって欲しいと思ってます」
勢いで怒りを含んでしまった自分の言葉にハッとし、ともみは恐る恐るミチの反応を伺った。その表情が変わらないことで、急激に照れくささがこみ上げ、今こそルビーに茶化して欲しくてちらりと伺うと、なぜか、うるうる顔で感極まってしまっている。なんで!?と突っ込みたくなるのを何とか抑えると、ミチが言った。
「ともみ、お前…そんなこと言えるヤツだったんだな」
「どんなヤツだと思ってたんですか」とともみが口をとがらせると、ミチは、ほんの少しだけ微笑んだ。すると、メグが。
「ミチ、変わっちゃったね」
すぐにメグは、ハッとしたように、ごめん、と呟いた。言ってはいけない言葉を発してしまったというように、バツが悪そうに視線を落としたメグを、ミチは優しく見つめた。
「ともみがここまで話してくれたんだから――オレも、言えなかったこと…今までメグに伝えてこなかったこと、もう、言わなきゃ、な」
メグの視線が上がるのを待って、ミチは続けた。
「さっきともみが言ったこと。オレはあの時からわかってたよ。あの日…大好きだから別れるって言ったメグの、大好きにウソがあったとは思わない。ただ、お前は仕事を選んだ。でも別にそれはいいんだよ。あの頃のオレも…そして今でも、メグが望むことを叶えてやりたいとは思ってる。オレにできることならな」
どこまでも哀れなGiver(ギバー)。ミチをそう評した光江の言葉が蘇る。けどそれは不幸なことだろうかと、ともみは思った。ミチの言葉はとても清々しく響いたから。
「でも、オレはもうあの頃のオレじゃない。あの頃はお前以外の誰もいらないと思ってたからな」
「光江さんもいたでしょ」と、弱々しく、なんとか微笑みを作ろうとしたメグに、「あの人は別物だ」とミチが顔をしかめた。
「別れてからの10年、お前にいろんなことが起こったように、オレにも起こったんだよ。だから当然変わっていく。そしてオレにとっての一番の変化は…」
ミチの視線が突然自分に向けられ驚いたともみに、少しだけ表情を緩めてミチは続けた。
「仲間を信用できるようになったことなんだ。だから、守りたいものがメグ、お前だけじゃなくなったんだよ」
メグの表情が歪み、ともみの胸が詰まる。ああ。と思った。やはりメグは自分から手放し、離れて過ごしてもなお、自分がミチの一番であり、オンリーワンであり続けることを願い続けてきたのだ。きっと自分でも気づかぬままに。
「自分は愛され続けて当然な存在だと信じられるのはメグ、お前の最大の長所だ。オレはそんなお前が愛おしいよ。今でもそれは変わらない。けどな」
― ミチさん、それ以上は言わないで。
ミチの言葉、その流れを自分が作ったにも等しいのに、ともみは思わず願ってしまった。おそらくメグは、ミチの存在を支えに世界で闘ってきた。いざとなれば、自分の全てを許して受け入れてくれる、待っていてくれる人がいる。そう思えたからこそだからこそ大胆に仕事ができてきたのかもしれない。でもそれが今、崩れようとしている。
「愛おしさの形も変わるんだなってことを…皮肉にも、今回お前が戻ってきたことで思い知ってしまった。お前が弱っているならどんなことをしてでも助けたい。けど、それはもう…昔のような、どうしてもオレの手で、オレの力で幸せにしてやりたいという感覚とは違う」
ともみと同じく、流石のルビーも言葉が出ないようで、店中に染みわたっていくように沈黙が広がり、冷蔵庫のモーター音が耳障りな程に響く時間がしばらく続いた。そして。
「……そっか。ミチにはもう、私はいらない?」
ほほ笑んだ、メグのその、無理やりの笑顔が哀しくて、ともみの胸が詰まった。
「お前のことがいらなくなることなんて、絶対にない。この先も、ずっと」
躊躇なく、真っすぐにメグを見つめたミチの瞳も、その声も、とてつもなく優しくて。自分に向けられているものではないのに、ともみは思わず涙がこみ上げそうになり、慌てて唇を噛む。
「…ミチ、そういうのずるいよ。切り捨てるんだったら、きっぱり切り捨てて…」
その先の言葉をメグは飲み込んだ。そして自虐的な笑みになる。
「そっか、こんな気持ちになるんだね」
それが何を指すのか、聞かずともわかった。大好きだからこそ別れたい、と言った時のこと。ミチが、そういうつもりじゃなかったけどな、と、穏やかに続けた。
「メグがどこにいても、この先もずっとオレはお前を愛してる。でもその愛の形が、昔とはもう違う。うまく言えないけど――例えるなら家族愛だと思う。…家族の愛なんて知らないオレが言うのもなんだけど」
メグの喉が、乾いたかのように鳴り、作られた笑顔が歪んだ。
「これからもずっと、お前はお前らしく生きて欲しい。でも、オレはもうお前を待たない。だから…」
「光江さんから、リリアの情報をもらえ、ってことだよね」
今度はミチが黙った。緊迫のやりとりに自分が呼吸を止めていたことを、ともみは息苦しくなって気づく。ともみとルビーは、先ほど光江がメグに、リリアの情報を交渉材料にしてミチから離れるように言ったことを話していない。けれどミチの表情を見ると、光江の行動について想像がついているのだろうとわかる。
「ショックを受けてる自分にショックだな。あ~あ」
メグがわざとらしくおどけて続けた。
「さっきともみちゃんに色々言われてた時は、そんなことない!ってムカついたりもしてたけど、今、こんなにショックを受けてるってことは、全部図星だったってことだよね。自分がミチにとってずっと1番なはずってうぬぼれてたってことだよね。完全に失恋した気分だもん」
まるで快晴の空のような大きな笑顔を作った、その明るさが余計に悲しくて、ともみが言葉をつなげずにいると、ただな、とミチが言った。
「ボスの…光江さんのことだから、たぶん――オレがお前に搾取され続けてるとでも言ったんだろうが、オレはお前に何かを奪われたなんて一度も思ったことはない。オレの方こそお前に救われてきたし、満たされてきたんだ。
本当に感謝しかないし、誰がどう言おうと…お前の男になれたことも、お前と過ごした時間も、心から――幸せだったと言える。お前と出会えなきゃ、今のオレはいないんだから」
ありがとう、とミチが頭を下げると、メグのその笑ったままの大きな瞳から涙が溢れた。え、ウソ、イヤだ、と慌てたメグが、ぬぐっても、ぬぐっても、止まることなくこぼれ続けた。
結局、しばらくの間メグの涙は止まらず。ミチの顔がどんどん心配そうに歪み、ソファーから立ち上がりそうになったところで、ルビーが止めた。
「ミチさん、今メグさんを抱きしめようとしてるでしょ?ダメだよ」
まさに図星だったようで、浮かせた腰を気まずそうにソファーに沈めたミチに、ルビーは、ミチさんはもう帰った方がいいかも…と言い出した。
「…お前、騙し打ちのように呼び出しといて、今度は帰れと?」
「だって、話はついたし、ミチさんの今日の役割は終了したんだもん。この後はミチさん抜きの方が話しやすそうだしさぁ」
と、ルビーは全く悪びれる様子もなく、どうぞお帰り下さいとばかりに、手のひらで、Sneetの入り口のドアを指し示した。
ミチは、ギロリとルビーを、そしてともみも睨んだあと(たぶん本人は睨んだつもりがない)、溜息をついて立ち上がると、上着を手にし、何も言わずに入り口へと向かった。ドアを開けると一瞬振り返り、メグを見つめたその切なげな視線に気づいたのは、ともみだけだった。
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そのあとは、ルビーの仕切りで女子会となった。Sneetの個室に移り、カラオケで失恋ソングを何曲か歌った後(ルビーとメグが)、ようやく涙が出なくなったメグが言った。
「ともみさん、光江さんに伝えてもらえる?資料を頂きます、と。そしてもう、ミチには会わないってね」
言葉を返せないまま頷いたともみに、メグがにやりと笑った。
「悪いけど、光江さんの力を利用させてもらう。まずはリリアを助けて、彼女の生活の安全が保障されるまで、私は現地で動こうと思う。それで全てが安心できる状態になったら日本に帰ってきて、今度は私からミチに告白する」
何年後になるかわからないけどね、と宣言したメグに、ルビーが、イエーイ!だと思った~!とカラオケマイクで叫び、次の曲のイントロが流れ始めた。それってもう二度とミチには会わないという光江との約束は破ることになるのでは?という疑問を、ともみは苦笑いで心に秘めた。
「フラれたのにもう一度ミチに恋しちゃった。だってあんないい男、他にいる?ますます惚れ直しちゃうよ、あんなの」
爆音の中、ルビーが歌い出すと、メグは声を張り上げるようにして、ともみに続けた。
「今日から片思いが始まったって感じ。まずはリリアを助ける。それは最優先事項だし、戻れるのはいつになるかわからないけど…もう甘えて奪うだけの女は卒業する。今度こそ――自分の手でミチを幸せにできる、いい女になって帰ってくるから」
▶前回:「今でもまだ好き?」別れて10年経つが、付かず離れずの元恋人に本音を尋ねたら…
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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