
家族を養うため、と仕事一筋できた山口さん(仮名・60歳)。60歳の定年を迎え、退職金と貯蓄で老後資金は万全、夫婦で悠々自適なセカンドライフが始まるはずでした。しかしその夜、妻が差し出したのは「離婚届」。夫にとっては過去でしかない30年前の言動が、まさか数千万円の老後資金と、老後設計を揺るがす事態を招くことになるとは、思いもよりませんでした。本記事ではCFPの伊藤寛子氏が、「老後の安心」のために、「お金の準備」だけでなく備えておくべきことについて、山口さんの事例を元に解説します。
老後資金も家庭も問題ないはずなのに…思いも寄らぬ「妻からの申し出」
山口さん(仮名・60歳)は有名大学を卒業後、一流商社に就職。以来、仕事一筋で、家族を養うために身を粉にして働いてきました。休日の接待ゴルフや飲み会も、成果を上げるための努力の一環でした。
60歳の定年で受け取る退職金は約2,500万円、年金見込み額は夫婦で月30万円。約5,000万円ある貯蓄と合わせれば、悠々自適な老後生活を送れる見込みです。息子と娘は就職して独立し、家庭も円満。少なくとも、山口さんはそう信じ込んでいました。
定年を迎えた夜、「これからは仕事のペースも落ち着くし、夫婦ふたりでゆっくり旅行でも」と思っていた矢先のことです。
「あなた、少し話があるの」
妻(57歳)に呼ばれた山口さんは、「これからの旅行の相談か?」と呑気に構えていました。 ところが、妻は静かにテーブルの上に白い封筒を置きました。
中を開けた瞬間、山口さんは息をのみました。封筒の中には、記入済みの「離婚届」と、「財産分与に関する計画書」が入っていたのです。
妻は弁護士と離婚に向けた相談を始めており、離婚後の住まい、生活費、年金分割など、すべて計画済みだったのです。
「離婚を切り出すのは定年後に」と決めていたのは、夫の退職金が確定するタイミングを見計らってのことでした。「老後は一緒に」と考えていたのは夫だけ。
「一体なぜ?」
「俺が何かしたか?」
心当たりが一切ない山口さんは、呆然とするしかありませんでした。 そんな山口さんに妻が語り始めたのは、なんと30年前、長男が生まれた時のことでした。
「あなたにとっては大昔のこと、あるいは何も気づいていなかったかもしれないけど。あの時のあなたの言動を、私は一生忘れることができません」
妻に深く刻まれた「産後に受けた心の傷」
当時、山口さん夫妻は20代半ば、初めての子どもを授かりました。無事出産した喜びも束の間、妻は退院後、産後の傷の痛みを抱えながら、寝不足のなかで必死に育児をしていました。
しかし、山口さんは「仕事が忙しい」「会社の飲み会だから」と帰りが遅い毎日。退院直後から育児は完全に妻任せでした。 頼りの妻の母親も体調を崩しており、誰にも助けを求められない日々。そして退院から2週間後、妻は乳腺炎で40度の高熱を出してしまいます。
妻は当時を振り返りながら、言い募りました。
「身体が辛くて、自分のことだけでも精一杯なのに、それでも赤ちゃんは泣き続ける。私が『お願い、今日だけでいいから会社を休んで、私を病院に連れて行って』って頼んでも、あなたは心配する声ひとつかけずに『今日はどうしても外せない会議があるんだ』とだけ言って出て行ったのよ」
「しかもその週末、熱が下がらず苦しむ私に対して『大事な接待ゴルフがある。出世がかかってるんだ』あなたはそう言って、高熱の私と赤ちゃんを二人きりで家に残して、出かけて行ったのよ。その瞬間、『この人は、私が人生で一番つらい時に、私と子どもを見捨てたんだ』『この人と一生添い遂げるなんて無理だわ』って心底思ったわ」
山口さんは、「そんな昔のことで…?」「俺だって若かったし、その頃は仕事が本当に大変な時期で…」「謝るよ、悪かった!」 と必死に弁解しましたが、妻は静かに首を横に振りました。
「結局、それからもあなたは常に家族よりも仕事が最優先。そのスタンスが変わることはなかったわ」
