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『べらぼう』に登場せずも…62歳で南町奉行に就任した遅咲きの“名奉行”根岸鎮衛とは

『べらぼう』に登場せずも…62歳で南町奉行に就任した遅咲きの“名奉行”根岸鎮衛とは

江戸後期の人物・根岸鎮衛(ねぎし・やすもり)は62歳で南町奉行に就任し、18年の長きにわたり奉行所を率いた。

裁判をスピード化することで庶民の負担を減らし「慈悲深い奉行」として親しまれた一方、「め組の喧嘩」をはじめとする大事件も的確に裁いた。

NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺』の主人公・蔦屋重三郎と同時代を生きた男でもある。(小林明/ライター)

62歳で町奉行となり18年在任

根岸鎮衛が江戸南町奉行に就いたのは1798(寛政10)年、62歳のときでした。その後、1815(文化12)年まで18年にわたってその座にあり、在任のまま79歳で没しました。

激務で知られる町奉行に、62歳の高齢で就いたケースは多くありません。例えば、同じように長く町奉行にあった大岡忠相(ただすけ/越前守/在職約20年)が就任したのは41歳。 20歳ほどの開きがあります。

根岸は在任当時、その大岡と比肩する名奉行と評価されていたフシがうかがえます。

肥前平戸藩主・松浦静山(まつら・せいざん)が著した随筆『甲子夜話』(かっしやわ)には、根岸が「極刑にあたる罪で斬首に処した者が10人おり、不憫なことをした」と、後悔を語ったと記されていますが、これは1816(文化13)年の随筆『世事見聞録』にある、大岡忠相が「冤罪(えんざい)がひとり、死罪に相当しないのに極刑に処した者がひとりいる」と告白したエピソードと、酷似しています。

大岡の逸話を載せた『世事見聞録』は1816年の成立。対して『甲子夜話』は1821(文政4)年から1841(天保12)年の間に起きた出来事をつづっています。つまり5年ほど先に世に出た大岡のエピソードが『甲子夜話』の根岸にすり替わって世に流布し、それを松浦静山が書きとめたのではないでしょうか。

こうしたことは、根岸が大岡に引けを取らない人物と評価を受けていたから起きた——そう考えるのが自然に思えます。

蔦重も名前くらいは知っていたはず

根岸が江戸南町奉行に就いた1798(寛政10)年は、『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺』の主人公・蔦屋重三郎が死去(1797/寛政9年)した翌年でした。生まれは根岸が1737(元文2)年、蔦重が1750(寛延3)年——根岸の方が年上ですが、2人は同時代を生きています。

実際、根岸は役人として頭角を現すと、浅間山の大噴火(1783/天明3年)では被災地である農村を巡見する役を担い、その後の米騒動「天明の打ちこわし」(1787/天明7年)も目の当たりにしています。

根岸は「出自が農民」といううわさが流れていました。豪農だった根岸の父が御家人の身分(御家人株)を購入して武士となり、鎮衛はその三男。さらに子どもがいなかった御家人・根岸家の株を買い取り、鎮衛を養子とした——といった経緯があったといわれています。

しかし、これは根岸家の系譜の一説で、もとから御家人だったとの別説もあり、真相は定かではありません。肝心なのは、江戸庶民が先祖は農民という説に親近感を抱いたことでしょう。

江戸の住人も出自をさかのぼれば、農村から都市に出てきた者たちでした。農民から立身出世して幕閣の中枢まで昇り詰めた根岸は、町人には歓迎すべき男だったのです。蔦重もその名くらいは知っていた、と考えるのが自然でしょう。

裁判のスピードアップを徹底

根岸は最初、田沼意次に登用され、1763(宝暦13)年に幕府の最高裁判所に相当する評定所の留役(予審をする際の判事)、1768(明和5)年に勘定組頭(勘定奉行の補佐)、1776(安永5)年に勘定吟味役(勘定所の監査役)を歴任し、「しごでき」の吏僚(りりょう)との評価を高めていきます。

1787(天明7)年、転機が訪れます。田沼意次の失脚を受けて松平定信が老中首座になると、「田沼派」と見られていた根岸は冷遇されて当然でした。しかし、定信は根岸を公事方(くじかた/勘定所内で訴訟を担当する部門)に異動させます。法令・判例等に通じた、訴訟に明るい能力を買ったのです。

この時期のエピソードが、風聞書『よしの冊子(ぞうし)』に残っています。

本多忠籌(ほんだ・ただかず)が懇意にしている関東近隣の代官が、引負(ひきおい/年貢が徴収できなかった分が代官の負債となること)の不満を訴え出ました。訴訟を担当した公事方が根岸でした。

本多は『べらぼう』にも登場する松平定信の側近です。その実力者が、根岸にこうささやいたといいます。

「私の知人だからといって遠慮はいらない。しっかり糺(ただ)してほしい」

歴史学者の山本博文はこれを、「(しっかり糺しては)逆説的で、自分に懇意だから手心を加えるようにと、言おうとしたのだろう」と、事実上の圧力だったと見ています。

根岸はこう答えました。

「いささかも遠慮いたしません。ただし、表向き穏便に済ませます」

つまり判決は公明正大に下すが、万一有罪になった場合は騒ぎ立てず、本多の顔をつぶさないようにします——というわけです。

また、これも『よしの冊子』にある逸話ですが、南町奉行に就いてからの根岸は訴訟をできるだけスピーディーに処理しようと心がけており、これが大衆にはありがたかったそうです。

地方の庶民が江戸で訴訟をする際、「公事宿」という旅館に宿泊するのが慣例でしたが、訴訟が長引けば、そのぶん宿代はかさみます。根岸は判決を早く出せばコストダウンをはかれると考え、審理をスピードアップし、「慈悲深いお奉行様」と称賛されました。

今も昔も、訴訟はカネを要するのですね。

火消しvs.力士の大げんかを裁く

根岸が実際に裁いた事件にも触れましょう。1805(文化2)年に起きた「め組の喧嘩」です。芝神明宮(芝大神宮)で町火消「め組」と相撲取りとの大乱闘が発生し、南町奉行所が出動して関係者を捕らえました。

火消しの鳶(とび)が火の見櫓(やぐら)にのぼって半鐘を打ち鳴らしたため、他の組の火消しまで参戦。一方、芝神明宮で奉納相撲の興行が開かれていたことから相撲関係者も多く居合わせ、両軍入り乱れての人員はかなりの数だったと推測できます。

奉行所は強盗などの重犯罪には厳しい半面、「江戸の花」といわれた火消しの喧嘩には比較的寛容でした。根岸もあまり騒ぎにならないよう罰するつもりでしたが、め組の一員が半鐘を鳴らすなど、江戸中に響き渡る大騒動になっては、そうも行きません。幹部を江戸から中追放(江戸から10里=約40km四方外に追放)とし、火消し約160人に罰金刑を下しました。

対して相撲側は、中心人物の力士1人が「敲(叩)きのうえ江戸払(追放)」。江戸史研究家の丹野顕は、「(相撲側の罰が)軽くみえるが、火消したちを遠島処分にしないための措置だった」と分析している。

数百人を動員して騒乱に及んだ火消し側の責任者は、本来、遠島などに処されても仕方なかったのですが、根岸は火事の消火に貢献ある者たちに、重い罰を科したくなかったのでしょう。そこで相撲側の罰を軽減することで、相対的に火消しも厳罰を免れるように配慮したのではないかと分析しています。

根岸は「半鐘を三宅島に島流しにした」?

なお、この喧嘩で火消しが鳴らしたという半鐘には、面白い余話があります。根岸は火消しを流罪にする代わりに、「半鐘を三宅島に島流しにした」といううわさが流れたのです。

そんな珍事が起きるはずありませんが、ばかげた話題を好む江戸っ子たちには格好のネタでした。

このうわさがいつしか、遠島を許された半鐘が芝神明宮に戻ったといわれるようになります。事実、鐘は今も宝物として神宮に保存されています。また「め組の喧嘩」は歌舞伎の演目『神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』の題材となり、たびたび上演されました。

半鐘は現在、港区の有形民俗文化財となっています。

このような不思議な逸話が、根岸鎮衛という町奉行を起源としているのは、偶然ではないと思われます。というのも、根岸自身が伝説・怪異・奇譚(きたん)の類いに目がなく、それらを書きとめた雑話集『耳袋』(みみぶくろ)を著し、後世に残しているからです。

『耳袋』はカッパをはじめ、犬の物の怪(もののけ)、冥土から帰還した老婆、しゃべる猫など、これでもかというほど“変な物語”を所収しています。つまり江戸の庶民は、あの風変わりなお奉行様なら、半鐘を島流しにするくらいやりかねないと、笑いのネタにしたのでしょう。

根岸鎮衛とはそんな気さくで、くだけた人柄であり、だからこそ大衆に愛されたのではないでしょうか。

    【参考図書】
  • 『武士の評判記』山本博文/新人物ブックス
  • 『江戸の名奉行』丹野顕/文春文庫
  • 『耳袋 原本現代訳』根岸鎮衛著、長谷川政春訳/教育社

■小林 明(こばやし あきら)
歴史雑誌・書籍編集兼ライター。『歴史人』(株式会社ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)の編集を担当。また、『一個人』(一個人出版)への執筆をはじめ、webメディアでは『nippon.com』『ダイヤモンド・オンライン 』『Merkmal』などで連載を担当中。近著に『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)

配信元: 弁護士JP

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