
年金生活に入り、家計の収支を改善するために「家賃の安い住居」へ住み替える。これは、老後資金を守るための定石のように思えます。特に、家賃が格安な「公営住宅」への当選は、多くの人にとって幸運なチケットに映るでしょう。しかし、想定外が待っているケースも少なくないようです。本記事では、波多FP事務所の代表ファイナンシャルプランナー・波多勇気氏が、関根さん夫婦(仮名)の事例とともに、老後の住まい選びの注意点について解説します。※プライバシー保護の観点から、相談者の個人情報および相談内容を一部変更しています。
高級老人ホームの隣室入居者
坂井俊夫さん(仮名/72歳)は、都内の公立中学校で40年以上勤め上げた元教師です。退職金は2,180万円。妻に先立たれ、子どもは独立し、自宅マンションを4,280万円で売却したことで、手元には6,000万円を超える現金が残りました。
「これで気兼ねなく暮らせますよ」と、相談に来たとき坂井さんは穏やかな笑顔をみせていました。選んだ先は月額37万円の高級老人ホーム。ラウンジはホテルのようで、毎朝の食事はシェフの手作り。職員との会話も心地よく、順風満帆な滑り出しだったはずでした。
けれど入居から3ヵ月ほど経ったころ、筆者のもとに坂井さん本人から電話がありました。
「少しお時間いただけませんか」その声はどこか沈んでいて、初めて面談したときの張りがありません。
後日、相談室のドアを開けた坂井さんは、椅子に腰掛けると深いため息をつきました。
「……実は、ちょっと嫌なことがあってね」
筆者が頷くと、しばらく沈黙が続き、やがて小さく口を開きました。
「エレベーターで隣室の人に会ったんです。軽く挨拶したら、向こうがね、『教師って年金いいんでしょ。だからこういうところ入れるんですよね』っていきなりいったんですよ」
坂井さんは困惑した表情で続けます。
「一瞬、意味がわかりませんでした……。 初対面の人に、なぜそんなふうにいわれなきゃいけないのか」
言葉だけ切り取れば、ただの雑談かもしれません。でも坂井さんにとっては、そうではありませんでした。
「なんだか、自分の人生が金で分類されたみたいで。胸の奥が、ずっとざわざわして消えないんですよ」
退職後、ゆっくり生きていこうと決め、妻にしてやれなかった分まで丁寧に暮らすつもりだった。その決意を、他人の一言が揺らしてしまったのです。
「暮らしは快適なんです。でも、人の視線が怖くなるなんて、思ってもいませんでした」
坂井さんは、3ヵ月で自分のなかに起きた変化を、ゆっくりと、確かめるように話していました。
「高級ホーム」という社会と、みえにくい心理的コスト
「それに、生活費のことも気になりはじめたんです」
坂井さんは続けました。月37万円。年額444万円。手元に6,000万円があっても、仮に運用しなければ約13.5年で枯渇します。この試算を筆者が紙に書き出すと、坂井さんは小さく息をのみました。
「……90歳まで生きると考えたら、厳しいな」
そこから、施設の生活についてもう少し深く話しました。
「実はね、ここ数週間、食堂で会話していても探られている感じがして、不安なんですよ」
「経歴などですか?」と聞くと、坂井さんは頷きました。
「ええ。医者だった人や、会社を興して売却した人もいるらしいんです。会話の節々に、どんな家に住んでいたとか、投資をしていたかとか、そういう話が必ず出てくる。あの空気に、だんだん自分が耐えられなくなってきましてね」
高級老人ホームの入居者層は、確かに多彩です。職歴、資産規模、家族構成。それらが混在し、会話の端々に価値観の違いが滲みます。
「ご自身の選択は間違いでしたか?」と尋ねると、坂井さんは首を横に振りました。
「違うんです。悪い場所じゃない。ただ……ここにいると、ずっと肩に力が入ってしまう。自分が自分でいられない気がするんですよ」
筆者は、少し時間をおいてからこう話しました。
「坂井さん。お金の問題より先に、心の負担を無視してしまうと、どんなに理想的な場所でも暮らしは続きません。住まいは設備ではなく、空気で決まるところがあります」
坂井さんは「まさにそのとおりです」と目を伏せました。
