昨年の春に「お風呂キャンセル界隈」という単語が広まったことをきっかけに、「外出キャンセル界隈」「ご飯キャンセル界隈」など、いまや「○○キャンセル界隈」のフレーズはすっかり定着した。そして今年の後半から目につくようになったのが「残業キャンセル界隈」だ。
仕事が残っていても定時になったら帰り、それを申し訳なく思ったり悪びれたりしないのが、残業キャンセル界隈と称する若者たちの特徴だという。
Xでは「生産性を上げない限り残業が発生するならスケジュールがそもそもおかしい」と擁護する声もある一方で、「もうそれは『残業キャンセル界隈』ですらなくただの『職務放棄』なのよ」などと批判する声もある。
しかし、定時だからといって残業を断ると、人事評価が下がったり懲戒を受けたりするなどのペナルティが生じるのでは、との疑問を抱く人もいるのではないか? 以下では「残業キャンセル」に関わる法律的な問題を解説する。
「残業をキャンセルする権利」は存在する?
そもそも、「会社員が残業をキャンセルする権利」は法律で定められているのだろうか?
日本の労働基準法では法定労働時間は1日8時間・週40時間とされており、これを超える労働(時間外労働)は、本来、原則的に禁止とされている(労働基準法32条)。
しかし例外として、36協定(時間外・休日労働に関する協定、労働基準法36条参照)を締結している場合や就業規則・労働契約での根拠がある場合には、会社は従業員に残業を命じることができる。
36協定に加えて、就業規則に残業命令に関する規定があること、業務上の必要性があること(急ぎの業務・繁忙期・顧客対応など)、命令内容が社会通念上相当で過大でないこと、健康配慮がされていること(過労死ラインを超えるような命令はNG)などの場合であれば、残業命令は「業務上の必要性があり、合理的である」と評価されやすい。
上記のように残業命令が正当な場合、従業員は原則として応じる義務があるとされている。
これに対し、家庭の事情(育児・介護・通院など)で対応が困難な場合、過重労働・健康悪化のおそれがある場合(医師の指導・長時間労働累積等)、業務命令が不当・嫌がらせ目的・報復目的の場合(パワハラ残業)、36協定がない/上限時間を超える命令、そもそも就業規則に根拠がない場合などには、拒否が認められる。
労働問題に詳しい雨宮知希弁護士は、「まとめると、残業命令が不当または過度な場合には残業を断る(キャンセルする)権利は認められます」と語る。
「他方、正当な命令であり、労働契約上『時間外労働の可能性がある』前提で雇われている場合は、原則として従業員は残業命令に応じる義務がある(キャンセルできない)ということになります」(雨宮弁護士)
「評価が下げられる」「昇進できなくなる」の声もあるが…
残業キャンセル界隈の若者たちに対しては「定時で帰ってばかりいると社内評価が下がるのではないか」「チャンスを与えられずに昇進できなくなるのではないか」と心配する声も見受けられる。
残業を断った従業員に対して、会社側が「評価を下げる」「昇進させない」などの対応を取ることは、どのような場合に法的に認められる「合理的な人事判断」となるのだろうか。逆に、不利益変更やパワハラとみなされる可能性はないか。
「前提として、社員の評価や昇進は企業に裁量があるとされていますが、その裁量には『合理性』が必要となります。
残業拒否を理由に露骨に評価を下げる、残業をしない社員に業務を与えない、昇格試験の受験資格を奪う、残業しない社員に嫌がらせ的な配置転換をするなどのケースは違法とみなされ、不利益取り扱いやパワハラ(職場環境の悪化行為)と認定される可能性があります。
他方で、業務の性質から一定の残業が不可欠な役職である場合や、『成果を出すために残業が必要だった』ことが客観的に示されている場合、残業しなかったことで顧客クレームや業務の遅延が発生した場合などは合理性が認められます」(雨宮弁護士)
まとめると、単に「残業をしなかった」というだけで評価を下げるのはNGだが、業務遂行上の結果に基づく正当な評価であればOKということだ。
残業キャンセルを続けるための注意点は?
「残業キャンセル界隈」を自認する若者がトラブルや不利益を避けながら定時退社を続けるためには、家庭の事情や健康状態などの理由から定時退社を希望する旨を、上司に対して事前に伝えておくことが望ましい。また、チームで業務に取り組んでいる職場の場合には、他の従業員にも共有しておいた方がよいだろう。
また、もし不当な残業命令をされていると感じた場合には、命令や業務量について記録を残し証拠化しておくことが対策となる。長時間労働が強制されている場合には、労基署や弁護士に相談するといったことも検討すべきだ。
「定時退社をすること自体は、まったく問題ありません。ただし、残業をしないことにより不当な扱いを受けないようにするためにも、事前の説明や、残業命令が不当であることを説明できるように記録を付けておくことが大切です」(雨宮弁護士)
一方で、一部の社員の「残業キャンセル」によって特定の社員に負担が偏る、会社や部署の業績や成果に著しい悪影響が出る、などの問題が起こっている場合には、会社側は残業を命令することができるのだろうか。
「人手不足である、客先の納期が迫っている、業務上必要不可欠な作業である、他の従業員に大きな負担がかかっている、などの事情があれば、社員には残業命令に従う義務が発生しうると考えられます」(雨宮弁護士)
ただし、残業を断る社員を懲戒することのハードルはかなり高い。残業拒否を理由に懲戒処分(減給・出勤停止・解雇など)を行う場合には、客観的合理性や相当性が要求されるため、無効になる可能性が高いからだ。
とはいえ、職場で波風を立てないにこしたことはない。残業キャンセル界隈の若者たちが自身の労働者としての権利を持つことも大切だが、上司や同僚の気持ちも考えて、協力しながら仕事に取り組む姿勢も忘れないようにすべきだろう。

