10月、自民党と日本維新の会は、2026年の通常国会で「国旗損壊罪」――正式には「日本国国章損壊罪」――を制定する法案を提出する方針を明らかにした。また、参政党は単独で11月27日、「日本国国章損壊罪」の新設を盛り込んだ刑法改正案を参議院に提出した。
参政党案では、日本の国旗を侮辱する目的で損壊・除去または汚損した場合、2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金を科すという内容となっている。
こうした動きは2012年にも、また2020年の暮れから2021年の1月にもあった。2012年には国会に提出された上で、廃案となっている。今回すでに明らかになっている参政党提出法案の骨子は、これらの過去の議論と大筋で同趣旨である。自民・維新提出予定の法案も大筋で同じものと考えられる。
これらの法案が、現在の内容のままで法制化されれば、憲法への抵触を免れない。(本文:志田陽子(憲法学者))
「表現の自由」だけにとどまらない「精神の自由」全般の問題
この件が表現活動にどう影響してくるかについては、2012年の法案に関して出された日弁連の声明をはじめ、多くの法律家が繰り返し指摘してきた。
同法案は、損壊対象の国旗を官公署に掲げられたものに限定していないため、このままでは国旗を芸術表現や商業広告やスポーツ応援に利用する行為や、政府に抗議する表現方法として用いる行為なども処罰の対象に含まれてくる。
正確にいえば、「国旗及び国歌に関する法律」に規定された図案に則ったものと同じ寸法の図案が広く対象に含まれてくる。表現者が自分で作った布や紙の国旗が法適用の対象となりうる。
また、映画作品や絵画作品・彫刻作品の中でそうした表象を切り刻んだり燃やしたり、自然風化していく表現をした場合にも、適用される可能性が出てくる。そのため、「表現の自由」やその根底にある「思想・良心の自由」を侵害するおそれがある。
たとえ制定者が、政治的批判表現の自由を規制することを意図していなかったとしても、法文がそのような適用・運用を許す内容となっていた場合には、規制対象が広すぎて違憲となる部分を含んでいるために違憲、と判断すべきことになるだろう。「過度に広汎なため違憲」とか「過剰包摂」といわれる問題である。
刑事罰が、どうしても必要か?
他方、この損壊罪の対象となる国旗を、官公署に掲揚されたものや式典用に掲揚されたもの、私人(他人)の敷地内に掲げられたものに限るとするならば、憲法違反となる可能性はほぼなくなるが、新たな規定を設ける必要もない。そうした積極的な損壊行為は、現行のままでも器物毀損(きそん)となり、また業務妨害(公務執行妨害)ともなるからである。
また、国旗が国家や日本国民を象徴しているにしても、その国旗を毀損したからといって、国家が実力をもって転覆されるわけではない。そうした事柄は日本では内乱罪(刑法77条)の規定があり、首謀者は死刑または無期懲役という重い罪が課されることとなっている。国旗という象徴の損壊を、国家そのものの損壊と同視するべきではない。
「表現の自由」を代表とする重要な自由権を制約する法律については、「その規制がどうしても必要」(compelling)といえる場合、かつ、「その必要性(目的)に見合う最小限の規制に限り合憲」で、「そのような厳しい規制方法を採らなくても、他にもっと人権制約の度合いの少ない代替手段があるならば、そちらを採るべきだから違憲」(Less Restrictive Alternatives:LRAの原則)というのが、憲法学でおおむね共有されている考え方である。
この考え方に照らすと、とくに必要がないのに屋上屋を重ねる法律を制定することは、合憲とすべき理由がないことになる。また、そのために刑事罰というもっとも重い規制手段を採ることについても、「その手段でなければならないのか」と問わなくてはならない。
つまり、規制する具体的必要のある事柄はすでに現行法で対処可能であり、これが「国旗損壊罪」制定の目的なのであれば、屋上屋を重ねる必要はない。かたや、ここに限定されない事柄をあえて刑事罰の対象とするのであれば、その部分は、個人の自由の領域に不当に踏み込む「過剰包摂」になるのではないか、という「違憲の疑い」の観点から、綿密に考察する必要がある。
現行法のもとでも、国旗の表象が侮辱的に利用されることを防ぐ法制度は、知財法の中にすでにある。たとえば、国旗または外国の国旗の尊厳を害するような図案は、商標登録を受けることができないと解されている(商標登録の審査基準において、同条同項7号にあたると考えられている)。
これは、ロゴマークなど商業用のシンボルとしての法的保護を受けられない、つまり国が知的財産として保護することはないというルールである。国家の名誉(尊厳)を害する国旗使用を抑制する手段としては、ここまでで十分ではないか。
立法事実と、選挙演説中の批判的聴衆の排除
自国旗に関する損壊罪を新設する理由について、参政党案は、「日本国に対して侮辱を加える目的で、日本国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損する行為についての処罰規定を整備する必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。」と法案の末尾に明記しているが、これでは法案の文言を繰り返しているだけで、実質的な「理由」となっていない。
「当該の処罰規定を整備する必要」を、上記の問いに照らして具体的に説明する責任が、為政者の側にあるのである。こうした必要性を示す、社会の中で実際に起きた具体的な出来事のことを「立法事実」というが、この刑事罰の新設を必要とするだけの「立法事実」はあるのだろうか。
この点について、参政党はインタビューに答えて、参政党の選挙演説中に日の丸の旗に×印を付けて掲げていた人々がいたと語っている。これが「立法事実」なのだとしたら、この法案はまさに「政治的表現」そのものへの刑事規制ということになる。
選挙演説中の聴衆の反応表現(ヤジ)で、演説への物理的妨害とはいえない程度のものを警察が抑えることは、警察の職務権限に含まれないことが、「北海道警ヤジ排除事件」の最高裁判決で確認されている。ここでは選挙演説中の聴衆の各種表現が「表現の自由」の保障を受けることが確認されている。
騒音妨害とはならない国旗を掲げる表現を警察力をもって制圧することは、なおさら警察の正当な職権に含まれないこととなるので、このような立法事実によって立法目的が説明されている刑事規制は、違憲の疑いをクリアすることはできないだろう。
刑法92条「外国国章損壊罪」と揃える必要は?
日本では他国の国旗を損壊した場合に罰則を科す刑法規定があるが、日本国旗についてはそうした規定はない。高市首相をはじめ、この規制を推進している人々は、このことを問題視し、ここに揃えるべきだと主張している。
しかし外国旗の損壊について定めた刑法92条は「日本と外国の間の円滑な国交」を守るために定められているもので、この筋からは、日本国旗の損壊について定めがないことは当たり前ということになる。
日本国内で日本社会における民主主義の担い手が自国を批判するために国旗を用いた表現をすることは、自己統治の中の自己批判の自由に属するからである。したがって、92条とのバランス上、日本国の国旗への毀損にも処罰を設けるべきだという議論は成り立たない。
それでも自国の国旗に対する損壊罪を制定したいのだとすると、92条とは別の立法目的として、国の名誉の保護や、国民の愛国心の涵養(かんよう)といったものが出てくることになる。
推進者の一人である高市氏はたびたび「名誉」に言及しており、ホームページでも、「国旗が象徴する国家の存立基盤・国家作用」「国旗に対して多くの国民が抱く尊重の念」などが、侵害から守るべきもの(保護法益)としてあげてきた。
そして、これが自国旗に対する損壊罪を定めることの本命の目的だろうと考えられるために、これと憲法が定める各種の精神的自由権の規定との衝突が問題となるのである。
運用次第となる危険性
上記の考察にもかかわらず、こうした法案が提出されるとしたら、その焦点は、公務上の国旗を損壊や掲揚妨害から守ることではなく、一般人が国旗(日の丸)の表象を自分の表現に使うことについて統制する、ということだろう。
この場合には、表現者が自分で作った布や紙の国旗や、作品中に描き込んだ国旗の表象が法適用の対象となる可能性が出てくる。そして法案は、ここに規制を及ぼさないようにするような絞りをかけていない。
そうすると、この規定はたとえば「日の丸弁当」を箸で崩しながら不味そうに食べるパフォーマンスなどにも、理論上は広く及ぶことになり、その大部分は警察の目に入らないために目こぼしをもらっている状態となり、たまたま警察の目に入ったもの、あるいは市民や政治家筋から通報があったものが処罰の対象となる、という成り行きになる。
運用次第で、「誰かから通報されたら有罪」という恣意(しい)的で嫌がらせ的な処罰に道を開くこととなる。この筋では、国旗には関連しないが、郵便受けへのビラ配布が住居侵入罪に問われた「立川反戦ビラ事件」(2008年の最高裁判決で有罪確定)が思い出される。
もっとも、「侮辱する目的」でなければこの罪には該当しない、「侮辱」と「批判」「警句」は異なるので、真摯(しんし)な批判的政治表現にはこの規定は適用されず、「表現の自由」には抵触しない。という反論はありうる。
しかし、「侮辱する目的」については、運用次第で外側から認定される可能性がある。事情聴取や裁判実務で「認識説」が採られ、「このような表現が侮辱的だということは当然に認識できたはずだ」といった論法で決めつける尋問をされた場合、この目的は肯定されてしまう。
たとえば香港では、民主的な自己統治の回復を求める表現活動者の一部に、国旗侮辱罪で逮捕・投獄された人が複数名出ている。日本と外国では政治事情の実際が異なるとはいえ、政府を批判する表現に国旗を用いることが刑事罰の対象となる実際の例として、参考にすべきである。
刑法は全般に、誰が運用・解釈しても同じ結果となるように法文を明確化し(罪刑法定主義、明確性の原則)、不要なものを刑罰の対象としない、とくに「表現の自由」にかかわる場合には「どうしても必要な最後の手段」としてのみ正当化される。提案される見込みの国旗損壊罪は、こうした刑法・憲法の基本原則から大きく外れたものとなる。
萎縮効果
百歩譲って、実際にそのような運用はされなかったとしても、ある行為を「犯罪」として明文規定するということは、上記のような成り行きを人々に連想させるものであり、表現者にとっての萎縮効果は強力なものとなる。
たとえば刑法175条の「わいせつ規制」のように、「芸術表現は例外」「社会的意義のある表現は例外」とする裁判理論を作って「表現の自由」とのバランスをとる道はあるかもしれない。しかし、丁寧に裁判理論を見ていけば違法ではないといえる事例でも、そこまでの知識のない一般人が「違法ではないのか」と糾弾をし始めると、会場運営者が萎縮して展示を中止してしまう、といったことがある。
この種の法律ができることで、表現者や展示会場運営者の萎縮を招いたり、一般人からのバッシングを増幅させたりする可能性は高い。
たとえば、2019年に展示中止が起きた「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」についても、当時、国旗の描画が作品の下部(床に接する部分)にある作品について、そうした非難のトーンでの取り上げ方がSNS上の一部の発言に見られた。
国旗損壊罪が新設された場合、法律のお墨付きを得たということで、こうした「炎上」の傾向が強まることが予想される。こうした一般人の「自粛警察」によるアゲツライが起きて当該の表現が社会に出にくくなることも、「萎縮」の一場面である。
そのような紛糾を招きやすい刑法規定をわざわざ設けることに、上述のような「違憲の疑い」をクリアするだけの社会的メリット(公共の福祉)を見出せるのかどうかは、疑問である。
「表現の自由」の保障は為政者のために必要
国家・政府に疑問や怒りなどを伝えたい人がいるとき、国家の作用やその下に生活する現実の国民に有形の実害を与えることなく、《表現》によってそれを表す行為は、国家や為政者のためにこそ、保護すべき理由がある。こうした表現が許容されることによって、社会の中のさまざまな不満が現実の暴力に至らずに、対話的是正の道へ向かうことができるからである。
「表現の自由は民主主義の不可欠の前提」といわれるが、このことは、為政者を暴力的な転覆行為から守っているのである。「表現の自由と民主主義」のセットが完成していなかった時代のイギリスやフランスでの「革命」と比べてみればわかるだろう。
こうした「表現の自由」観を建国の歴史に照らして重視してきたのが、アメリカである。アメリカでは、自国の国旗を侮辱する表現を禁止・処罰することについては、連邦最高裁が違憲判決を出している(Texas v. Johnson、1989)。
この判決でアメリカ連邦最高裁は、社会がある観念を不快または好ましくないと考えているとの理由で、その観念の表現を禁止することはできない、とした。また、その表現を見た人が必ず危険な行動を起こすという予測に基づいてその表現を規制することもできない、とした。
《何かを表現すること》は、一般社会からの不評や反感を買うリスクを常に抱えている。その反感は、「思想の自由市場」の中で、同じ「表現の自由」の一環として表明されるべきもので、その表現を禁止したり、表出の場を塞いだりする理由にはならない。
上記のアメリカの判例は、国が一方の人々の反感に肩入れして一方の表現を塞ぐことは、憲法に照らして認められない、ということを確認したものといえる。
ところで当のアメリカでは、トランプ大統領が、2025年8月、この判例を真っ向から否定する内容の大統領令に署名した。大統領は「国旗を燃やせば1年の収監、仮釈放も認めない」という姿勢を表明し、国旗を焼却・侮辱した者を訴追するよう司法長官に指示した。行為者が外国人の場合には、ビザや永住権、帰化手続きの制限・取り消しも盛り込まれた。
この大統領令は、移民政策や中東情勢への抗議デモで国旗が焼かれる映像が拡散したことをきっかけに、「国家への敵意の表明」を強く非難する文脈で出されている。これは「表現の自由」の例外として、「差し迫った違法行為を誘発する場合」を根拠にしているのだが、ここでの「差し迫った違法行為」は何を指すのだろうか。
表現そのものをそれだと断じることはできない。国家への暴力的な挑戦行為を防ぐ目的なのであれば、暴力煽動そのものを処罰すればよいことである。そこでたまたま国旗の表現を使った場面があったとしても、規制の関心は暴力煽動そのものであるべきで、国旗表現そのものを標的にすることは的が外れている。
いま、日本で推進されている国旗損壊罪が、こうしたアメリカの姿勢に見倣おうとしてのことであるとすれば、これは文字通り「排外主義」と「政治的言論の制圧」を目的とした規制ということになってしまう。この問題で日本は、この一年間のアメリカの過熱・逸脱した政治状態を真似すべきではない。
憲法における「名誉」と「愛」
国旗損壊罪を新設する与党政治家側の動機が、国の「名誉」を守りたい、ということである場合、この「名誉」については立ち止まって考える必要がある。
日本国憲法前文の末尾には、「名誉」という言葉が書かれている。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」というものである。この「名誉」は、国際社会の中で平和と普遍的政治道徳――人権保障も当然に含まれる――を守ることを指している。
この「名誉」は、第二次世界大戦において危険な軍事国家として信頼を失ってしまった日本の信頼回復を目指すことを表現した言葉である。いま、この国が、自国民や住民から尊敬されていない、ということをどうこうするという関心から表明された言葉ではない。
むしろ、そうした場面で刑事罰という威嚇手段、拘禁刑という暴力手段を使わないという賢慮こそが、憲法前文にいう「名誉」にかなう方向だろう。世界の憲法に重要な影響を与えたイギリス「名誉革命」における「名誉」が、暴力によらずに政権交代が実現できたことを指していることを考えれば、日本国憲法における「名誉」の方向性も理解できる。
国家というものは、中世の絶対王政期のそれとは異なり、それ自体は空虚な入れ物であり、民主主義によって選ばれたその時々の代表者がその仕事を担当していく。「国家」という入れ物を満たすのは、為政者を含む、一般国民(主権者)全員である。
その中の、特定の為政者や愛国心の強い市民の感情が害されるという「不快な思い」については、それを守るために刑事罰をもって表現を抑え込むべきではない、という先のアメリカ連邦最高裁の判例を見れば十分だろう。
また、国旗・国歌に関しては常に「愛国心」の強制が真の動機ではないか、ということが論じられる。暴力や暴力の煽動を規制対象とするのでなく、こうした価値観のほうを統制することは、「思想・良心の自由」に反する。
しかし日本国憲法は、愛や公共心を否定しているわけではない。日本国憲法は、「愛」を定義も強制もしていないが、そのもとに暮らす人々が自発的な愛情に基づいた人間関係を形成したり、郷土愛や愛国心をもって生まれ育った土地の風景を大切にしたりすることについては、その「自由」を妨害するべきでない、という基本姿勢を貫いている。
愛国心などの「愛」は強制できるものではなく、自発的にそれを持っている人の日々の暮らしや表現を妨げない、ということが、憲法13条「幸福追求権」や憲法19条「思想良心の自由」、その他多くの規定の根底にある。
その時々の統治者の仕事ぶりを指して「国」という場合には、その「国」への尊重や愛は、後から結果としてついてくるものである。最良の刑事政策は社会政策である、という法格言がある。社会政策が不十分な状態で、国政への不満を刑事罰で抑えようとすることは、社会をかえって危険な無気力状態や治安悪化に追い込むことになるということを、提案者の方々に知ってもらう必要がある。
法で強制しようのない「精神の自由」を法で強制しようとすれば、短期的には排外主義をテコにした求心力の上昇を見込めるかもしれないが、長期的には、その法律や為政者への尊敬が失われていく。
提案されている国旗損壊罪は、憲法に照らして許容できない法案となる可能性が高いだけでなく、さまざまな現実の緊要課題を抱えた状況下で国会の限られた時間と労力をこのようなことに割くことの「無駄」を露呈することになるのではないか。
国の「名誉」、つまり国が国民から尊重や社会的信頼を得て、国際社会において強圧的な独裁国家ではない「文化国家」として信頼され続ける道は、そうしたことよりも、いま国民が訴えている切実な関心事に応える仕事に専念することだろう。
■志田 陽子(しだ ようこ)
武蔵野美術大学教授。博士(法学)。憲法理論研究会運営委員長(2022-2024)、全国憲法研究会運営委員、日本科学者会議共同代表、日本女性法律家協会・憲法問題研究会座長。芸術・文化政策に関連する憲法問題の理論研究を続けながら、表現の自由と多文化社会の課題に取り組んでいる。著書に『表現者のための憲法入門 第2版』(武蔵野美術大学出版局、2024年)など。

