◆“屋根の上”で缶チューハイを手渡され、大いに困惑
一万円を見て全てがどうでもよくなった。貧困という砂漠への水である現金は他の何より優先されるのだ。そうしてレモンサワーを片手に持ったいかついおじさんと共に、横浜スタジアムにほど近い現場に向かった。その日は屋根の防水加工で、ヒロさんは高所にビビる僕を尻目にどんどんと足場を登っていった。そこにもう一人、初老の太ったおじさん社員の渡部さんが合流し、軽い段取りの説明があり、作業がスタートした。ふたりとも僕に優しく手取り足取り作業を教えてくれて、現場仕事で怒鳴られないことに感動を覚えながら気持ちよく仕事をさせてもらっていたのだった。
そうして少し新たな職場への緊張がほぐれてきた頃「千馬君酒好きだって聞いたよ!」という大声と共に僕の目の前に酒の缶が差し出された。酒は確かに好きだけどまだ昼間の10時、三角屋根の上で仕事をしているなかで缶チューハイを飲むのは明らかにおかしいのではないか。
おかしいけれど、はっきり断れば角が立ってしまう気がして、引き攣った笑いを浮かべながら差し出された酒を受け取った。しかも、当時流行っていたアルコール9%の代物だったから余計にタチが悪く、缶を作業着のポケットに隠して仕事を続けた。
◆覚悟を決めて、缶を開けるも…
その後も食事休憩や15時の煙草休憩が挟まるたびに酒の缶を手渡され、その度に全てポケットに隠していたが、その重量がおそらく2キロを超えたころ、ポケットからカチャカチャと音がするたびに二人が僕を睨んでいるような気がしてきた。酒を隠していることがバレはじめたのだろう。案の定、ヒロさんが僕に声をかけてきた。「ちゃんと水分とらなきゃだめだよ! せっかく渡井が買ってきてくれたのに」
「余計脱水症状が進むのでは……」と思わず呟きそうになるのをグッとこらえてポケットから一本の酒を取りだし、プルタブを引いた。できれば仕事終わりに聞きたかった軽快な音が鼓膜に届いた瞬間、脳裏に浮かんだのは酔っぱらって屋根から転げ落ちる自分の姿。僕は無意識のうちに缶の中身を屋根にぶちまけてボーっと立ち尽くした。ヒロさんも渡井さんも顧客の屋根に伝う液体に慌てふためき、しばらくしてどうにもならないことを悟って、諦めたような目で僕を見つめた。
「千馬君、悪いんだけど今日で終わりだわ。目上の人間の酒くらいちゃんと飲みなよ」

