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朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
◆田舎のヤンキー、パチスロに出合う

「高校中退して、バイク乗ったりしてブラブラしてたの。一応、働かなきゃってことで、先輩の紹介で内装屋で働いてたけど、まぁ、田舎のヤンキーの典型例だよね。そのときにパチスロ覚えて打つようになったんだ。当時は大花火とかが人気でよく打ったけど、そんなに目押しも得意じゃなかったから、今考えたら損してたなぁって。その頃はまだ誘われてたまに打つくらいな感じだったね」
その後、加藤さんは18歳になると、地元の先輩に誘われて鹿児島市内のラウンジでボーイを始めることになる。
「内装屋も社長が親分肌な人で、すごく面倒見がいい人だったから居心地はよかったんだけど、若い頃ってヤンチャしたいじゃない。それで誘われるまま夜の世界へ……ね。そこで2年くらい働いてたんだけど、今度は知り合いから東京の店で働かないかって誘われたんだ。若かったから勢いだけはあってさ、じゃあ行っちゃえ! って。六本木と歌舞伎町で都合3年働いたかな。東京出てきて初めてもらった給料をパチスロでスッちゃって、それがもう悔しくてさ。カネがないから次の給料まで何にもできないじゃない。なけなしのカネでパチスロ雑誌買い漁って、すり切れるまで読み込んだんだよ」
昼はパチスロ、夜はボーイという二足のわらじを履いた生活は若き日の加藤さんにとって、充実した毎日だったという。
「仕事終わって朝まで飲んで、そのまま開店に並んで夕方まで打って、そこから店に行って……なんてこともよくやってた。今考えるとよくあんなに体力あったなぁって。ただ、あの頃は勝ってたというよりも、あんまり負けなかったっていうのが正解かな」
◆トラブルで逃げるように地元へ……
しかし、とある事情から加藤さんは地元に戻ることとなる。「お店のコとデキちゃったことが店にバレて……。そのコは店を辞めて別の店に行っちゃったの。そしたら、そのコがオレの悪口を散々言ってたみたいで、そのことが上の人の耳に入っちゃって……。呼び出されて『テメェがテキトーなことやったから、別の店に飛んだだろうが!』ってボコボコ(笑)。結局、この一件でものすごい揉めちゃって、逃げるようにして鹿児島に戻ってきたわけよ」

