◆静かな車内に漂う小さな緊張感

席はほどよく埋まった状態で静かな雰囲気に包まれていたが、発車してしばらくすると、前の女性が何度か背中の位置を変え、座り直す様子が目に入ったそうだ。
「最初は体勢がしっくりこないのかと思ったのですが、何度も小さく動き、後ろを気にするように振り返る姿に、どこか違和感を覚えたんです。そして次の駅を過ぎて、女性がゆっくりとリクライニングを倒そうとした瞬間でした」
女性の後ろの席に座っていた若い男性が、明らかに聞こえる声量で呟いたのである。
「倒れんけん……」
その言葉には苛立ちが含まれていた。女性は驚いたように動きを止め、後ろを振り返った。いったい、どういうことやら……。
◆足を前の座席に押しつける若い男性
中田さんの席から表情までは確認できなかったが、若い男性の姿がはっきりと視界に入った。イヤホンをつけ、足を大きく前方に伸ばし、シート裏に押しつけていたそうだ。座席が女性の背中側から押されているため、彼女はリクライニングが倒せなかったのだ。しばらく女性は我慢していたようだが、男性の足は引っ込まず、むしろ押しつける力を強めているように見えた。
ついに、女性は体をひねるようにして後ろを向き、強い口調で言ったのだ。
「あなたが足をどけてくれたら、普通に倒せますよ!」
車内に響くほどの声量ではなかったが、なんとか怒りをこらえているのが周囲にも伝わった。男性は一瞬固まり、イヤホンを外して「は? あ……はい」と曖昧な返事をした後、気まずそうに足を引っ込めた。
その動きがあまりにもわかりやすかったため、中田さんを含め、周囲の数人が思わず顔を見合わせた。女性は深い息をついてから、ようやく落ち着いた様子でリクライニングを倒したのだった。

