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「本当に来たなあと思った」山上徹也被告が初めて語った犯行当日と長年の恨み【安倍元首相銃殺裁判、被告、母、妹の証言から】

「本当に来たなあと思った」山上徹也被告が初めて語った犯行当日と長年の恨み【安倍元首相銃殺裁判、被告、母、妹の証言から】

◆よく通る声が印象だった―被告人質問

筆者と共に全公判を取材しているフランス人ジャーナリストの西村カリン氏が法廷画を提供してくれた。西村氏は元漫画家で、AFP通信記者を経て現在はフリー。絵/西村カリン
11月20日の第10回公判。午後3時45分、田中裁判長が「被告人質問に入る。被告人は証言席に」と述べると、山上被告は裁判長、裁判員、検察官席の方を順に向いて丁寧に一礼し、着席した。事件後、山上被告が公の場で事件について体系的に語るのは、これが初めてだった。

声はよく通り、質問には即答できるものと、沈黙を挟みながら言葉を選ぶものがあった。答えに詰まると、「申し訳ないが、もう少し考えさせていただければ」と前置きし、軽率な表現を避けようとする姿勢が一貫していた。

11月25日の第11回公判で、松本恒平弁護士の主尋問に対し、山上被告は安倍元首相をどう認識していたかを具体的に語った。「母親や地元の教団幹部から、安倍氏は統一協会の教義を理解し、味方になってくれているとよく聞いていた」「祖父の岸信介元首相、父の安倍晋太郎元外相の代から、統一協会に理解があり、深い繋がりがあると前から思っていた」と述べた。

「統一協会幹部や安倍氏ら政治家を襲いたいという漠然とした思いは、2003年ごろから頭の片隅にあった」とも語り、標的意識が事件直前に突然生まれたものではないことを強調した。2006年の福岡でのUPF集会で安倍氏のメッセージが読み上げられたことや、自殺未遂後に大阪で教団幹部をナイフと催涙ガスで襲おうとしたが実行できなかったことなど、過去の具体的な計画にも言及した。

山上被告は「ナイフは心理的に抵抗があった。一番いいのは銃だと思った」と述べ、2019年ごろから銃の製造を始めた経緯を説明した。その後、教団の公式サイトや、統一協会問題を継続的に報じていた『やや日刊カルト新聞』の記事をすべて読み、「第二次安倍政権以降、統一協会のイベントに多くの国会議員が参加していることを知り、非常に良くないと感じた」と述べた。

12月2日、4日の第12〜14回公判では、事件前日の行動についても詳しく語った。奈良市内の統一協会施設が入ったビルで手製銃の試し撃ちをした理由について、「母親と通ったこともある教会が入ったビルで、安倍元首相を襲うのは統一協会を許さないという意思表示だった」と説明した。

◆「本当に来たなあと思った」

事件当日については、商業施設のトイレで銃の安全装置の一つを外し発砲準備を整えたこと、到着した安倍氏を間近に見て「本当に来たなあと思った」と後方から撃つつもりだったが警備で近づけず、偶然生じた一瞬の隙で接近したことを淡々と語った。

発砲の瞬間に何を考えていたかと問われると、「射撃の心理学を扱った本に、撃つときは無心になれと書いてあったので、何も考えなかった」と答えた。裁判員から「事件を思いとどまることはなかったか」と聞かれると、「思いとどまることはなかった」とはっきり答え、「銃の製造に長い時間と費用をかけ、仕事も止め、経済的にも追い詰められていた。やめてしまうと、何のためにここまでしてきたのか分からなくなると思った」と述べた。

安倍氏に対する感情については、「表面に出る強い怒りではないが、困惑、失望、嫌悪感、敵意が頭の片隅や心のどこかに引っかかり続けていた」と表現した。「他の政治家ではなく、なぜ安倍元首相だったのか」という問いには、「統一協会と政治の関わりの中心にいる方だと思っていたので、他の政治家では意味が弱いと考えた」と答えた。

裁判員から「この事件によって目的は達成されたのか」と問われた際、10数秒沈黙した後、「非常にいろいろな問題が起きているので、今はお答えできかねる」と述べたのが印象的だった。最終盤、裁判員6人全員から追加の質問は出なかった。


配信元: 日刊SPA!

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