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みなさんは「教養」とは何だと思いますか?
どんなことができる人を「教養がある人物」だと形容するでしょうか。
最近、本屋に行くと一冊は「教養を身につけるために!」のようなポップとともに、ゴテゴテのギラついた表紙に飾られた「教養のための必読書」を見かけます。
タイトルには「毎日読めば教養が身につく」だの「世界のエリートが読んでいる教養書」だの、大層なお題目が。
「世間のエリート」がどう思っているかは、私にはわかりませんが、少なくとも私の知り合いの東大生たちは、みんな一歩引いたところから冷めきった目線でこの「教養ブーム」を観察しています。
先日彼らは、「『○○(難読書)を代わりに読む』がテーマの本って、あまりにも結果にしか目が行っていないことがわかってしまって、ダサすぎる」と話していました。
「教養がない人が、見せかけの教養を手にするために買いに行くバカのためのファスト・ナレッジ」「バカ証明書」だという人もいます。
東大生は、みんな入学直後に「教養学部」と呼ばれる学部に進学します。ここでは、いわゆる「教養本」とは正反対の観点から学びを得ることがよしとされる。東大教養学部の学びも踏まえつつ、世に溢れる「教養本」の意義を問います。

◆教養とは
世の中にあふれる「教養本」を、私も2冊買ってみました。すると、ある1冊の最初の50ページほどは「世界のエリートが呼んでいる教養書」として100以上の古典や名著のタイトルと、2行程度のあらすじ・もしくは筆者の感想が書き連ねられているだけ。もう1冊の方は、各ページに1~2ページで収まる様々な雑学コラムが書かれているだけ。さすがにこれは、教養とは呼べないように感じられました。
そもそも、教養とはなんでしょうか。インターネットで辞書を引いてみると、以下のように出てきました。
①
教え育てること。
「君の子として之これを―して呉れ給え」〈木下尚江・良人の自白〉
②
㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。
※コトバンク「教養」 2025年8月13日閲覧
おそらく、「教養本」の読者が求める「教養」とは、2番目の項目が言及している意味の言葉でしょう。
たくさん勉強をした人が持っている知的な余裕を漂わせ、かつユーモアを持ち合わせたような豊かな心を求めて、誰もが「教養本」を手に取ります。
「勉強法」が知りたいなら、「勉強法に関して書かれた本」を手に取ればいい。では、なぜ「教養」を求めて「教養本」に触れるのがダメなのでしょうか?
◆筋肉があれば「強い」というわけではない
世間で考えられているところの教養は、上記のような「知的な態度」でありながら、それを身に着けるのは大変です。たくさん筋トレをして、ムキムキのマッチョになっても、強くなった気がしないように、筋肉があればあるほど「強そう」に見えますし、「強さ」に近づけますが、「強い」わけではない。
同じように、教養も、知識があればあるほど「賢そう」に振る舞えますが、「賢い」わけではありません。
では、どんな人が強いのでしょうか?
それはおそらく、身体の使い方について、実践的な理解を深めた人ではないでしょうか。
筋肉があるだけの人を「強者」と恐れないように、料理のレシピをたくさん知っているだけの人を「料理上手」と呼ばないように、同じくして、知識をたくさん持っているだけの人を、我々は「教養人」とは讃えません。
なぜならば、集めた知識の使い方や発想の幅などを見て「教養がある」と認識できるのであって、知識を集めるだけで使い方の分からない人は、ただの知識マニアにすぎないからです。
そして、ただの知識マニアは、現代社会においてどうあがいても機械に勝てません。
インターネットで検索すれば大抵の情報が出てくる現代では、どれだけ計算が速くても「100円の電卓未満」ですし、どれだけ幅広い知識を揃えていても、ただ概要を知っているだけでは「辞書の劣化」に過ぎないのです。
教養とは、おそらく知識そのものではなく、それぞれの知識に関する深い理解と、一見関連のなさそうな事象同士に関係性を見出して、グループ分けすることで身につきます。
仮にこれがあっているとすれば、少なくとも私が読んだ限りでは、市販の教養本は、「劣化辞書人間」を量産するだけにしか見えません。

