◆これまでのあらすじ
大好きな豪の自慢の彼女でいるため、20時以降は何も食べないダイエットをしていたのに振られてしまった市子。
編集者として活躍するも、恋愛経験に恵まれない双葉。
ふたりはそれぞれの悲しみの中、深夜の美食に救われる経験をして──。
▶前回:「デート相手はいるけど、好きになれない」満たされない28歳女の心を埋めるのは、彼ではなく…
Vol.3 <早紀:清澄白河のカヌレ>
市子ちゃんから突然電話がかかってきたのは、23時ごろのことだった。
― 市子ちゃんから電話?こんな時間に?
驚きながらもビデオ通話に応答すると、スマホの画面いっぱいに市子ちゃんの顔が映る。
「あー早紀ちゃーん!聞いて〜双葉ちゃんが冷たいの。私がずっと大好きだった人にフラれたっていうのに」
どうやら双葉と一緒に飲んでいるらしく、背景には賑やかな飲食店の様子がちらちらと見える。
「えーどうしたの?え?双葉はわかるけど、市子ちゃん、こんな時間に飲みに出てるの!?」
返事をしながらも私は密かに、画面のインカメ映像を頼りに慌てて身なりを整える。
だって、市子ちゃんの表情は半泣きだったけれど、ばっちりと上げられたまつ毛が相変わらず可愛らしかったから。
体勢を少し引いてくれたことで見えたファッションも、さすが市子ちゃんといった感じで洗練されている。
そして隣の席には双葉の姿もあって、細身のニットと手入れの行き届いた長い髪が彼女の美しさを際立たせていた。双葉は、年々綺麗になっていくようだ。
一方の私は、何年も着古している部屋着姿。
娘の菜奈と一緒にお風呂も済ませてしまったからメイクだってしていないし、さっきまで濡れた髪のまま寝かしつけをしていたから、髪にはおかしな癖がついている。
その上、自分の食事に加えて、いつも菜奈の残したごはんを食べているせいか、すっかり体重も増えている。
最近は残り物をもったいないと思う気持ちには蓋をして、なるべく夜は食べ過ぎないようにしているものの、出産を経験したせいなのか、体は不思議と簡単に体重を落としてくれない。
― やだ。私だけすっかりオバサンになっちゃった感じ。
そんな焦りを感じつつも、本腰を入れてふたりと話しはじめようとしたその時。インカメの映像の背後に、夫がのっそりと帰宅する姿が映り込んでいるのを見つけた。
「あ、ごめん…!主人が帰ってきちゃったから、切らないと。また今度ゆっくり聞かせてね」
名残惜しさを感じつつも、私はそそくさと通話をオフにする。
そして、「ただいま〜」と呑気な声をあげる夫に、テーブルの上のスマホを伏せながら「おかえり」と声をかけるのだった。
慌てて電話を切った理由は別に、ふたりよりも夫を──六郎さんを優先したかったからというわけじゃない。
六郎さんにはなんとなく、双葉と話しているところを見られたくなかったから。
だけど、時すでに遅し、だったらしい。
六郎さんは私が座っていたダイニングチェアにのそのそと近づいてくると、隣にどっかりと座り込みながら、大きく首を鳴らして言った。
「今のって、双葉だよね?」
「…うん。双葉と、市子ちゃん。今ふたりで一緒に飲んでるみたい」
「そっか。あいつヘトヘトで帰ったと思ったけど、飲みにいく元気あったんだな。
いやぁ、最近の双葉はすごいよ。ページ差し替えのトラブルも完璧にこなしてて、すっかり一人前の編集者ってところだな」
「ふーん、そうなんだ」
六郎さんは私の同期の中でも、昔から特に双葉に目をかけている。
こうして双葉を褒めるところを目にするのは、入社してすぐに付き合い始めた頃から、一体何度目になるだろう。
― あーあ。わざわざ電話切ったのに、やっぱりこの話になっちゃった。
なんとなく気分が落ち込んでしまった私は、まだ下げずじまいだった菜奈と私の夕食の片付けを始める。偏食の3歳児と専業主婦の夕食だ。シンプルなうどんで手抜きをしたため、洗い物は多くない。
けれど、私がキッチンに立ったのを見るなり、六郎さんはまた首を鳴らして言った。
「ね、山崎出してもらっていい?飯は付き合いで鮨行ってきたんだけど、仕事残ってたから飲めなくてさ。そんで、それ飲んだらもう寝るわ」
「はいはい、お疲れさま」
言われた通りにリーデルのロックグラスに氷と山崎12年を注いで提供すると、六郎さんはそれを、何かに急かされるようにすぐに飲んでしまう。
そして、「今日も菜奈には会えなかったな〜、編集業はつくづく家族サービスには向かない仕事だよ」とかなんとか言いながら、さっさとバスルームへ消えてしまうのだった。
彼なりに、毎日帰りが遅くなることにうしろめたさを感じているのかもしれない。
私だって3年前までは同じ会社にいたのだし、六郎さんの仕事ぶりをすぐそばで見ていたのだから、もちろん彼の忙しさは理解できているつもりだ。
だけど…。
カルチャー誌の編集長をしている六郎さんは、お鮨を食べて好きな時間まで仕事ができる。
一人前の編集者になった双葉は、市子ちゃんと自由な夜を過ごしている。
一方、いま私の手の中にあるのは、子どもが少し残したうどんのどんぶりと、夫がウイスキーを飲み終えたロックグラスだけだ。
一体どうしてこうなってしまったのだろう。私だって、本当は働きたい。
だけど、それを過去に六郎さんに伝えた時には、はっきりと反対されてしまったのだ。
「気持ちはわかるけど、菜奈が小さいうちは無理せず、そばにいてやってくれないかな…頼むよ」
手早く洗い物を済ませた私は、鬱屈とした気持ちを留めておくことができず、ダイニングテーブルの上に伏せたままにしておいたスマホを手に取る。
「家族の洗い物をするだけの私って、な、ん、な、ん、だろう…っと」
指先で行き場のない気持ちを書き捨てる先は、Threadsだ。
社会から隔絶されたような毎日を送っていると、SNSはちょうどいい息抜きになる。
アカウント名は本名の”向井早紀”とは全く関係のない文字の羅列で、いわゆる“裏アカ”というものなのかもしれない。
けれど、わざわざ人に連絡をするほどでもない小さな幸せや、思いついただけの冗談、そして…心に溜まりゆく澱は、ここに吐き出すことにしているのだ。
だってこうでもしないと、六郎さんに言ってしまいそうになるから。
「あなたはいいよね」
今のバランスを崩してしまうであろう、罪の言葉を。
◆
翌日、菜奈を幼稚園に送った後に私が足を運んだのは、清澄白河の東京都現代美術館だった。
勝どきの家から清澄白河までは、大江戸線でたったの3駅だ。
菜奈が赤ちゃんだったころは遠ざかっていた趣味の美術鑑賞も、幼稚園に通い出した今はそう難しくはなくなった。
こうして少し美術館を覗くだけでも、「外に出たい」「自分のための時間を楽しみたい」という想いは浄化される気がする。
― でも、そろそろお迎えに行かなきゃ。買い物もしなくちゃいけないし…。
そう思って慌ただしく美術館を後にし、駅に向かう道中。
ふと、鼻腔が甘くくすぐられた。
「この香り、もしかして…?」
甘い香りに導かれて道を一本奥に入ると、そこには思っていた通りの店があった。
『MM Canelé』──カヌレの専門店。
何を隠そう私はカヌレに目がない。
もともと子どもの頃は本気で「パティシエになりたい」と思っていたほどの洋菓子好きだったけれど、その中でも特にカヌレは私のお気に入りなのだ。
あまりにも大好物すぎて、いつか新婚旅行をするときにはカヌレ発祥の地であるフランスのボルドー地方を巡るか、もしくはスペインのチョコレートのパティスリーを訪れるかのどちらかで迷っていたくらい(結局、授かり婚だったために新婚旅行には行けずじまいになってしまったのだけれど)。
吸い込まれるように店に入りながら、私は不思議な気分に浸っていた。
実は、昨日のどうしようもない愚痴ポストに、通りすがりの見知らぬアカウントからのリプライがついているのを、今朝読んだばかりだったから。
『ダンナさんと、おいしいものを食べてみるといいと思いますね。きっと、幸せな気持ちになります』
― hachiko_※※※※※?…“ハチ公”?誰だろう。でも、それもいいかも。今日は六郎さんもあんまり遅くならないって言ってたし…。
久しぶりにワクワクとした気分になりながら、ショーウインドウに並ぶカヌレを持ち帰り用に包んでもらう。
そして、本当に本当に久しぶりに、六郎さんに菜奈のこと以外の要件のLINEを送るのだった。
『ね、今夜は早く帰るって言ってたよね。最近六郎さんとゆっくり話せてないし、菜奈が寝たあとのんびり映画でも見ない?すごく美味しそうなカヌレを買ったよ───』
『いいね!了解』
返信はすぐに返ってきたのに、結局その夜、六郎さん本人は全然早く帰ってこなかった。
『六郎さん、まだ時間かかるかな?』
21時に送ったLINEは、3時間たった今も既読にならない。
菜奈の寝かしつけを終えた私の前には、菜奈が残した親子丼のどんぶりと、香ばしく甘い香りが漂ってくる白い箱だった。
どんぶりを片付ける気力が湧かない私は、カヌレのお預けをくらいながらインスタを開く。
特に何か新たに投稿する気もなかったから、ただ手持ち無沙汰だっただけだ。
けれど、“ハチ公”さんからのリプライを見て、胸がぎゅっと詰まるのを感じる。
『ダンナさんと、おいしいものを食べてみるといいと思いますね。きっと、幸せな気持ちになります』
そして次の瞬間ふと、怒りとも悲しみともつかない気持ちに襲われるのだった。
― 別に、ダンナさんとじゃなくたって、おいしいものを食べたら幸せになるでしょ。
気がつくと私は、目の前のミニマルな白い箱を、一人ぼっちで開封してしまっていた。
箱の中に入っているのは、さまざまなフレーバーのカヌレだ。
プレーン。フランボワーズ。コーヒー。他にも8種類の違った味のカヌレはどれも小さくて可愛らしく、甘い香りで私を誘惑してくれる。
「いただきます」
1人のダイニングテーブルで誰にともなくそう言うと、私は早速、プレーンのカヌレを口に運ぶ。
「おいしい…!」
カリッとした歯応えが歯に伝わったかと思ったら、すぐに食感はしっとり、そしてもっちりと柔らかく変化する。
甘すぎず、かといって物足りなさは全くない。
― こんなことなら、菜奈にも食べさせてあげればよかったな。
せっかく大人だけで楽しむために買ったカヌレだというのに、結局菜奈のことを考えてしまうことに自分でも苦笑してしまう。
何とも言えない苦々しさを忘れるために、私は次のカヌレに手を伸ばす。
六郎さんが帰ってきたのは、ちょうど私が4つ目のカヌレを食べてしまった、深夜0時半頃だった。
「ただいま〜…」
「お帰りなさい。もう、さすがに遅いよ。連絡もつかないし」
― よかった、カヌレはまだ2つ残ってる。
そんな私の気持ちは、六郎さんに近づいた瞬間に裏切られた。
六郎さんから漂ってくる、つんとしたアルコールの匂い。それから、煙と脂とニンニクの匂い。
「いや〜、久々に加藤と会っちゃってさ。ホルモン焼き屋でしこたま飲まされてきちゃったよ。ベロベロだし、さっと風呂入って寝るわ」
加藤さんというのは、六郎さんの同期だ。一生懸命家族のために働いてくれているのだ。友人と焼肉に行くことくらい、いつでも好きにすればいい。
だけど…。
「まさか…忘れてるの?」
「何が?」
「これ」
冷たくなった指先で、カヌレの箱を指す。すると六郎さんは、すっかり酔いのまわった顔色のまま笑顔を浮かべて言ったのだ。
「おっと、こんな深夜に洋菓子なんか食べちゃって。もっと太るぞ〜。じゃ、おやすみ」
ふらふらとした足取りでバスルームへと向かう六郎さんの後ろ姿を、私は見送る。昨晩と全く同じように。
私にとっては特別だった、ワクワクする時間。それは六郎さんにとっては同期との飲み会に負けてしまう程度のことなのだ。
だって、彼の世界は広いから。
そして私の世界は、とても小さい。
手のひらに乗ってしまうこの小さなカヌレよりも、ずっと小さいのかもしれない。
バスルームから、シャワーの音が聞こえる。
その無情な音をBGMにして、私はもう一度ダイニングテーブルに座り、残りのふたつのカヌレをすっかり平らげてしまった。
『ダンナさんと、おいしいものを食べてみるといいと思いますね。きっと、幸せな気持ちになります』
ハチ公さんのコメントに、このあとなんて返そうか。
『カヌレって名前の由来って、型に入ってる“縦の溝”だって知ってますか?フランス語で溝のことをカヌレって言うんです」
パティシエを目指していたころに得た豆知識を書いてみたら、どんな返事が返ってくるだろう。
▶前回:「デート相手はいるけど、好きになれない」満たされない28歳女の心を埋めるのは、彼ではなく…
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
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市子と別れた豪。別れの後、豪と新たに出会った女性の存在

