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横山温大選手、森宏明選手が語る「スポーツの力」

2025年夏の全国高校野球選手権大会では、岐阜県立岐阜商業高等学校(以下、県岐阜商)が16年ぶりのベスト4進出。公立校の快進撃、とりわけ準々決勝では春の選抜大会優勝校・横浜高等学校(以下、横浜)との激闘を制し高校野球ファンを魅了しました。

その中で、ひときわ注目を集めたのが県岐阜商の横山温大(よこやま・はると)選手です。生まれつき、左手の人差し指から小指までがないという障害がありながら、レギュラーとして出場。守備・打撃ともに存在感を示し、チームの躍進を支えたといっても過言ではありません。

今回、そんな横山選手と、2026年ミラノ・コルティナパラリンピック冬季競技大会の日本代表推薦選手であるクロスカントリースキーの森宏明(もり・ひろあき)選手の対談が実現。森選手は、小中高と野球に情熱を捧げますが、高校2年生のときに事故で両足のひざ下を切断。大好きな野球を諦めますが、その後、パラスポーツと出会い、パラスキー選手としての道を歩み出します。

障害がありながらも努力を重ね、輝ける存在となり、多くの人たちに勇気を与えているお二人に、競技に取り組む姿勢や自身の障害との向き合い方などに触れながら、それぞれが思う「スポーツの力」についても語り合っていただきました。

毎年地方大会に足を運ぶほどの高校野球ファンでもある森選手(右)。横山選手との対談が楽しみでしかたなかったと話す

好きだから続けてきた、野球のエリート街道をまっしぐら

森さん(以下、敬称略):横山選手は、野球を始めたのは小学3年からだそうですが、当時は義手を使っていたそうですね。

横山さん(以下、敬称略はい。でも小学校では軟式だったのが中学校で硬式に変わり、硬くて重い硬式球だと義手をつけてのクロスプレーの危険性や脱臼を心配されるようになりました。また、投手のときは義手だとクイック(※1)がうまくできなくて……。それで義手は使うのをやめたんです。

森:中学ではボーイズリーグで投手と外野手の二刀流だったとか。そこから県岐阜商へ入るまで、どんな経緯をたどったんですか。

横山:小学校からやってきた投手は好きでしたが、他に身体能力の高い選手がいたので、試合に出るためにバッティングを磨いて外野にも挑戦。バッティングは好きだったし、障害を武器にできるよう工夫したことで、結果的に主軸(※2)も任されました。それが成長につながったと思います。

県岐阜商への入学を決めたのは中学2年の冬。早めに声をかけてもらったので、他校は考えなかったですね。高校でも最初は投手をやろうと思ったのですが、思うように球速が上がらず、高1の秋に野手に転向しました。

森選手も小学2年から野球を始められたとお聞きしました。

森:友人と一緒に野球をしたくて始めました。そこで野球漬けの毎日を送り、中学では強豪クラブチームへ。僕も横山選手と同じで、投手をやりたかったけれど他に強い選手がたくさんいたので、内外野を転々とし、最終的に捕手でチャンスをつかみました。最終学年では日本リトルシニア野球選手権大会で準優勝したので、いい経験ができたと思います。

僕には親戚にモデルケースとなる人がいて、その人と同じ野球人生を歩みたいという目標がありました。高校卒業後は駒澤大学、そしてSUBARU硬式野球部へ所属することを目指して、野球の強豪校である淑徳高校に入学。練習に励み、高2の新チーム体制からは主将も任されました。

事故に遭ったのは、さぁこれから、という同年の8月のこと。他校を招いて行われた練習試合を終え、片付けをしている最中に、猛スピードで敷地内に入ってきた野球部OBが運転する車に足をひかれたんです。それで、両足を切断することになり、野球を続けることを断念しました。

横山:大変な経験をされてきたんですね。

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小3から高1までの野球人生を振り返る横山選手
野球少年だった時代を振り返る森選手

自ら考え、動く。その結果が人生を変える

高校までの野球人生を振り返りながら、徐々に打ち解け合う二人。会話を交わす中で、横山選手は、周囲が障害など関係なく普通に接してくれることがうれしいと語ります。

森:良き仲間にめぐり会ってきたんですね。甲子園で躍動した県岐阜商野球部のチームカラーはどのようなものだったんですか。

横山:チームのモットーは「明るく、笑顔で」。(高2の)秋季県大会、(高3の)春季県大会はどちらも準々決勝で敗れましたが、その悔しさが“勝ちたい”という強い気持ちにつながり、チームのみんなが同じ目標に向かってまとまるきっかけになりました。

また、藤井監督(※)は主体性を重んじる指導方法で、選手個人が見つけた課題に取り組む「課題練習」が中心です。自分たちで考える野球を大切にすることで、一人ひとりの主体性が育ち、結果としてチームのレベルが上がったと感じています。

森:「自ら考えて動く」って、とても大事だと思います。僕自身、事故後の治療3カ月とリハビリ3カ月、合わせて半年の空白時間があり、そこで今後の人生について向き合い、縁もあってパラスポーツに出会うことができました。

じっくり考えた末に選んだ道だからこそ、その後も「なぜ自分はパラスポーツをやるのだろう」と迷うことがない。それが今も続けられている理由かもしれません。

横山:挫折することはなかったんですか?

森:ありましたよ。僕は“事故”だったので、どうしても加害者・被害者の立場で裁判が行われます。すでにリハビリを経て自分なりの日常生活を取り戻しつつあるのに、「こんなに自分は困っています」と加害者の立場から主張しなければならないことに大きな違和感がありました。

「もう、どうでもいい」と投げ出したくなるときもありましたが、先ほどお話しした“空白時間”の中で、自分の人生を整理できていたのが、立ち直る支えになったのかなと思っています。

  • 県岐阜商をけん引する藤井潤作(ふじい・じゅんさく)監督。前任で監督を務めた鍛治舍巧(かじしゃ・たくみ)さんが、しばらく甲子園から遠ざかっていた県岐阜商を6年間で甲子園出場4回と復活させ、藤井監督がバトンを受け継いだ
挫折にまつわる森選手(右)の話に、真剣な眼差しで耳を傾ける横山選手

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