人柄に魅せられ、約30年の月日があっという間に過ぎた。難局を切り抜ける野中さんの姿を、黒子として目の当たりにした見聞は、何事にも代えがたい貴重な経験といえる。
今なお記憶に残る現場では何が起こっていたのかーー紐解いてみると、山田さんしか知りえない「野中さんの素顔」が浮かび上がってきた。

◆野中さんとの出会いは学生時代にさかのぼる
――野中広務さんの秘書を務めるに至った経緯を教えてください。山田大智:私の家は政治と全く関わりがなかったのですが、学生の頃から選挙に興味を持っていました。たまたま近所の母親の友人から依頼を受け、学生の選挙運動員として手伝いに行ったのが始まりです。
一番初めに選挙を手伝ったのは、京都府の自民党府議会議員の方。政治活動の個別訪問を通して、さまざまな人と出会えるのが面白かったですね。
その後、1983年7月に京都2区で衆議院の補欠選挙が行われることになりまして。その府議会議員の方から「野中先生が衆議院の補欠選挙に立候補するから、すぐに手伝いに行け」と連絡があり、行ったのが野中先生との出会いです。
◆「この人について行きたい」という感情が芽生えた出来事

山田大智:当時、右も左も分かっていなかった私からすると、元京都府知事という肩書きで来ているこの人は、優しそうな雰囲気はまとっていませんでした。むしろ「怖そうな人だな」って思ったんですね。いったい何をしている人なのか、と。
――その「怖そうな人」という第一印象から一転して、「ついていきたい」と思えたのは、立会演説会での体験がきっかけだと伺っています。
山田大智:当時は公職選挙法が改正されておらず、小学校の体育館などに各政党の候補者が集まり、一人ずつ演説をする「立会演説会」がありました。そこで野中先生の演説を聞いた時に、衝撃を受けたんです。
その演説は「盛者必衰、会者定離、生あるものは、必ず死す、愛のない社会は、暗黒であり、汗のない社会は、堕落である」という言葉で始まるのですが、言った途端に、会場に散らばっていた共産党系の支持者が騒ぎ始めたんです。当時はロッキード事件の田中角栄先生の二審判決前で、野中先生は、田中派で出ていましたので、「田中広務」とヤジが飛んだんですね。
対して、「ヤジを飛ばしたそこの君、それを君らが信奉しているソ連のクレムリンの赤の広場で政権党に向かって言ってみなさい。即刻銃殺だよ」 という感じで、一人一人に目を移しながら言い返したんです。
毅然とした姿を目の当たりにして、「この人について行きたい」という感情が芽生えました。政党に関心があったわけではなく、「人間・野中広務」という人を「もっと知りたい」という思いが強かったです。

