港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「元カノと一緒に仕事することになった」彼に告げられた28歳女の、複雑な胸の内
脚本家・門倉キョウコ
次の打ち合わせが入っているのですみません、と立ち上がったプロデューサーの宮本が、会計は済ませておくのでごゆっくり、とキョウコと大輝を残して慌しく去って行く。その後ろ姿を笑いながら大輝が言った。
「宮本さんっていつもあんな感じというか、せわしない人ですよね」
別れる前と何も変わらぬ笑顔を大輝に向けられたキョウコは、これが別れてから初めて2人きりになった瞬間なのだ、と改めて認識してしまう。「そうね」と返しながら、今、自分の表情はぎこちなくなかっただろうかと心配になった。
「キョウコさん、この後のご予定は?」
「…え?」
「もし、もう少しお時間があれば、アイデア出ししませんか」
「あ、ああ、そうしましょう」
キョウコは恥ずかしくなった。予定を聞かれ、一瞬でも胸が跳ねるなんて。大輝にとって自分は既に過去であり、仕事以外の話などあるはずもないのに、何を期待したのだろう。
何か食べながらでもいいですか?お腹すいちゃって、と聞かれて、キョウコは頷く。店員を呼び、この喫茶店の名物であるクラブハウスサンドイッチを頼んだ大輝が、その微笑みにキラキラとした光を宿して、まっすぐにキョウコを見た。
「オレの今の実力じゃ、キョウコさんの足元にも及ばないことは分かってます。でも今回、ずっと尊敬していたあなたの物語に自分の言葉を重ねることができる。一つ、夢が叶うんだと思うと、とても嬉しいんです」
その眩しさにキョウコは目がくらんだ。じわじわと体温が上がり手のひらが汗ばみ、目をそらして逃げ出したいのに、その眼差しにずっと囚われていたい気もしてしまう。胸の中で暴れる矛盾を抑えながら、キョウコは何とか笑顔を作った。
「恋の物語なら、私の方が随分素人だから友坂くんに学ばせてもらうことの方が、絶対に多いわ。でも…」
キョウコはきちんと聞いておくべきだと思ったことを、周囲を気にし、声のトーンを落としながら口にする。
「私たち2人で書く物語が、ドラマとして成立するかどうか、少し心配なの。もちろん仕事は仕事で、プライベートとは切り離すべきだということは分かってる。でも、最後まで感情に飲み込まれずに…きちんと客観性を持って書きあげることができるという自信がないなら、絶対に受けてはダメだと思う。お互いに、ね」
別れた恋人と仕事をする。しかもラブストーリーを書く作業を共にする、ということはたぶん脚本家人生でもう二度とないだろう。だからこそ脚本家として見たこともない高みに行けるかもしれない。キョウコにとって、その誘惑は甘美なものだった。けれど。
「友坂くんと一緒に作る世界への好奇心に抗いがたいというか、物書きとしての欲がある。でも…何話も続けていくうちにもしも、私たち2人の過去が重なることがあれば、お互いに苦しくなって書けなくなる時がくるんじゃないかって」
40歳が近付いて初めて知った、恋の喜び。愛される幸せ。別れを選ばざるを得なかった日の絶望すらも忘れたくないと思うほどに、かけがえのない大輝との日々が。
— きっと、あふれ出してしまう。
今日改めてそのことを確信した。だからこのまま仕事を受けていいのかと不安になったのだ。
大輝の唇が、キョウコに言葉を返そうかと動きかけたとき、クラブサンドイッチが運ばれてきた。固めに焼かれたベイクドエッグが特徴的で、グリルチキン、ベーコン、そして色鮮やかなトマトとレタスが、軽くトーストされたパンに挟まれている。たしかこの店のマスターが、ニューヨークのホテルで食べた味を再現したんだったっけ…とキョウコはぼんやりと思い出した。
店員の女性が立ち去り、遠ざかるのを待ってから、大輝は穏やかに、もし…と切り出した。
「キョウコさんがオレをふったことに気まずさみたいなものがあるのなら、もう気にしないでください。オレ、本気で恋した人に捨てられるのって、慣れてるんですよね」
慣れたくはないけど、とおどけた大輝を、違う!と否定しそうになったけれど、キョウコはグッと堪えた。
「もちろん別れたくはなかった。けど、別れることになった。そして今はもう、お互いの日々が進んでいます。そんな中でこの話がきたことは、なんだかとても…運命的な事のようにも感じて。もちろん、キョウコさんと世界に配信される大型作品を作れるということを、脚本家としてのチャンスだと捉えているし、野心がないわけじゃない。でも、それ以上に…」
大輝は一度目を落としてから、キョウコに優しい視線を戻した。ホテルのラウンジに穏やかな採光が満ちる中、吸い込まれてしまいそうな、色素の薄い透明感のある大輝の瞳に見つめられ、キョウコはなぜだか泣きたい気持ちになる。
「オレはむしろ、キョウコさんとの日々を――その想い出をなぞるように物語を作りたい。それができるなら…オレがあなたをいっぱい愛した、痛みを帯びた日々が報われる気がして。だから、挑戦してみたいと思ったんです。
あなたとの日々が本当に大切で、夢みたいに幸せで。そんな時間をくれたあなたに、心から感謝しているから。それを形にできる機会が巡ってくるなんて、脚本家としても、あなたにフラれた男としても…こんなに幸せなことはないです」
— ああ。
私小説みたいな書き方は脚本家としては正しくないのかもしれませんけどね、と苦笑いになりながらも迷いのない大輝の表情に、キョウコの全身を、やるせなさ、虚しさ、悔しさ、一言でまとめることはできない感情が駆け巡り、脱力させていく。
大輝はもう完全に自分との恋を終わらせ、未来へと歩き始めている。それを隣で支えている女性もいる。かつて自分にだけ向けられていた大輝の惜しみない愛情を受けているのであろう、ともみの真っすぐな瞳を思い出すと、キョウコの胸がジリっと小さく焦げた。
「わかった。じゃあ私も覚悟を決めるわ。お互いに…こみ上げるままに、本気で書き合いましょう」
キョウコの承諾に、大輝の顔がパアっと晴れてゆく。そして、ありがとうございます、と頭を下げると、ホッとしたかのように、サンドイッチを口に運び始めた。大きな口にほおり込んでいく様子は豪快で荒々しいというのに、その所作は相変わらず美しくて。キョウコが密かに見とれているうちに、あっという間に食べ終えた大輝が、コーヒーを口にしたあとで言った。
「実はこの前のパーティーの時、門倉監督に話しかけられました。直接会ったのは初めてだったんですけど」
夫である門倉崇と別居を続けているキョウコには初耳だった。元恋人と夫が対面していた。それは心穏やかな話ではないはずなのに、不思議とキョウコに焦りは起こらなかった。
「夫は…なんて?」
「今思えば、今回の仕事の前振りみたいなことだったのかなとも思うんですけど。今度、一緒に仕事ができるかもしれない、そんな話が出ているってことを言われて」
確かにさっき、プロデューサーの宮本も、「門倉監督には既に話をしている」とは言ってはいたけれど。
「それだけ?」
「話は当たり障りのない感じで終わりましたけど、監督はオレとキョウコさんのことをご存じなんだと思います。関係が終わったことも含めて」
「そう…」
「大丈夫ですか?」
心配そうに眉根を寄せた大輝に、キョウコは穏やかな微笑みを返す。
「あなたが彼に攻撃されていないなら、私はなんともない。それだけがずっと、心配だったから。それに…私と門倉が、もうとっくに終わっているってことは、あなたも知っているでしょ?」
最近、キョウコは夫に何度目かの離婚を切り出した。そしてようやく…ほんの少しずつだけれど話が進み始めていることを大輝は知らないし、伝えるつもりもなかった。
「攻撃は全くされていませんけど、監督に、君の書いた愛の物語を撮ってみたい、と言われました。どういうつもりなのかわからないですけど」
夫の行動に、キョウコは呆れと共に苦笑いがこみ上げた。どのような方法でキョウコの想い人が大輝だと知ったのかはわからないが、普通なら、一緒に仕事をしようなどとは思わないだろう。けれど崇なら。
― 妻と妻の恋人と、離婚を迫られている自分。
その3人で一つの作品を作ることを、面白く思ってしまったのではないだろうか。門倉崇は、その人の良さとホワイトな環境の現場を作ることから、世の中からは聖人君子のような扱いを受けて慕われているが、クリエイターとしての本質は貪欲で、泥臭い闇を持つ男だとキョウコは知っている。
理性を打ち負かす欲望や、人の業を貪欲に表現するし、好奇心のままに動く。自分の感情――例えば妻の想い人への憎しみでさえも、“面白い作品”を作ることに利用してしまうだろう。
キョウコと大輝と崇の関係において、崇は俗にいう、“寝取られた夫”。嫉妬や怒りにまみれた自分が、どんな映像を撮ることができるのか、その興味を抑えることができなかったのだろう。
― 崇も…そして私も、業が強い。そして、きっと。
目の前の美しい男も。作品を作ることへの情熱が、自らの人生を食い物にしようとしていても、寧ろそこへ飛び込んでしまうのだ。自分でも気づかぬうちに…そんな同志になりつつある、大輝に聞いた。
「呼び方、変えないのね」
「呼び方?」
「ずっと、キョウコさんって呼んでくれてるから。仕事仲間として会うのだから、先生と呼ばれると思ってた」
大輝はハッとしたような顔になった。
「ごめんなさい、無意識でした。オレにとって、キョウコさんはキョウコさんで、今更、門倉先生って呼びなおすのも…過去が否定されるみたいで寂しいんですけど…」
でも、変えた方が良ければ変えます、とまるで怒られた子どものようにこちらを伺う大輝が可愛くて、キョウコは愛おしさがこみ上げた。
― いつか、この気持ちは消えていくものなのだろうか。
消えて欲しいような、消えて欲しくないような。説明のできない切なさをごまかすように、「そのままの呼び方で大丈夫」だと言ったキョウコに、大輝の顔が、ぱぁっと明るくなる。
大輝は、自分の恋はいつも報われないと言っていた。本気で好きになった人には必ずフラれてしまうと。キョウコは、今、その理由がわかってしまった気がした。
― みんな…怖くなっちゃうんじゃないかな。
こんなに無邪気に、晴れやかに笑う美しい男が、溢れる愛を、ただ一途に注いでくれることが夢のようで。その魅力に気後れし、不安になり、やがて疑いに変わったそれにがんじがらめになり――耐えきれなくなった女性たちが、手放してしまうのではないか。
― 愛され過ぎて、信じられなくなるってこともあるのかもしれない。
大輝の純粋過ぎる想いは、眩しすぎるのだ。それほどまでの無償の愛を、美と共に振りまく男の罪深さに…キョウコは寂しさと共に、小さく溜息をついた。
▶前回:「元カノと一緒に仕事することになった」彼に告げられた28歳女の、複雑な胸の内
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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