元相方の桂三度(コンビ時代の芸名は渡辺あつむ)と日本のお笑い界を席巻するかと思われたが、東京進出後にまさかの失速。
その後、コンビ解散、再結成、“世界のナベアツ”フィーバーを経て再びの解散……と、そのキャリアは浮き沈みが激しい。
現在は芸人、うどん屋プロデューサー、ライター、投資家と肩書が入り乱れる変幻自在の働き方で注目を集めているオモロー山下氏だが、彼は何を拠り所に歩き続けてきたのか。半生をひもときながら、その本音に迫った。

◆順風満帆だった大阪時代
――現在、お笑い芸人だけではなく、ライター、投資家、うどん店のプロデュースと活動は多岐にわたりますが、山下さんがご自身で思う今の職業って何なんでしょうか?オモロー山下(以下、山下):お笑い芸人としてスタートしたんで、芸人でありたいとは思ってるんですけど、舞台には立ってないから芸人と名乗るにはおこがましいし……。お笑いタレントが一番しっくりくるかもしれません。
――そのお笑いキャリアの始まりであるジャリズムがデビューしたての頃、関西では大活躍でしたよね。
山下:養成所を出た直後に何本かテレビに出させてもらってましたし、デビューして1年くらいでアルバイトをしなくても生活できるようになってました。
関西ローカルでしたが一時、全放送局でレギュラーがありましたし、若手の賞もいろいろ獲ってましたね。
――それだけ忙しいとかなり稼げていたんじゃないですか?
山下:いや全然。関西時代のギャラ、めちゃくちゃ安かったんですよ(笑)。
関西にいた5年くらいはありがたいことに休む暇もないくらいお仕事はいただいてたんですけど、月収で100万円を超えたのは1回だけでした。
◆東京進出に失敗しレギュラーはラジオ1本に
――そうすると、本格的に収入が増えたのは1997年に東京に進出されてから?山下:いや、それが全然ダメで(笑)。
1997年の2月に東京に引っ越したんですけど、引っ越した直後に雨上がり決死隊と千原兄弟とジャリズムでやってたレギュラー番組「アメジャリチハラ」(テレビ朝日系)が終わることが決まって。関西の仕事も交通費がかかるから徐々に声がかからなくなっていきました。
――ゲストなどで出演した東京のほかの番組でもダメだったんですか?
山下:関西ローカルの番組中心に出ていたんで、誰も僕らのことを知らないんですよ。「こいつら誰やねん」って目でしか見られてなかったと思います。
――東京にうまくはまらず、仕事はどんどん減っていったと。
山下:そうですね、最終的にはレギュラー番組が関西のラジオ「ヤングタウン」(MBSラジオ)だけになってしまいました。
当時、ラジオ終わりに毎回マネージャーさんから1週間のスケジュールを貰ってたんですけど、ある日それを確認したら、次のスケジュールが来週のラジオだったときはめちゃくちゃ焦りましたね。
デビューしてから1週間まるまる休みだったことなんてなかったですから。

