
あまり他人には話さないことでしょうが、幼少期からの価値観の相違、決定的な喧嘩や行き違いから、親子が絶縁状態になってしまうことは珍しいことではありません。しかし、その結末が「孤独死」という形での再会だったとしたら、残された子どもの胸には重い問いが残ります。遺品整理の現場で見つかった、不器用すぎる親の愛の痕跡。それは、生前には言葉を交わすことのなかった親子の、最後にしてすでに手遅れな唯一の和解のきっかけなのかもしれません。※過去の相談事例をもとに、社会保険労務士法人エニシアFP共同代表の三藤桂子氏が解説します。事例は、プライバシーのため一部脚色して記事化したものです。
長年にわたる親子の隔たり
Aさんはひとりっ子。幼少期から父親とは価値観が相違していました。父は「夫が外で働き、妻は家を守るべき」「子どもは親に従うべき」という封建的な考えの持ち主。Aさんはしぶしぶ親の敷いたレールの上を歩んできましたが、常に不満を抱きながら過ごしてきました。
大学進学まで親のいうとおりに進んできたAさんですが、就職活動で初めて反旗を翻します。父が勧める大手企業の事務職ではなく、中小企業の企画部に就職したのです。自分の進みたい道に猛反対する父。反対を押し切って就職したのをきっかけに、絶縁状態となります。
母は専業主婦で、典型的な「昭和の家を守る妻」でした。母が仲立ちをしようものなら、父は「でしゃばることをするな」と激怒します。就職を機にAさんが家を出てからは、「二度と顔を見せるな」と家の敷居をまたぐことすら許されませんでした。
Aさんが結婚するときも、父は結婚式に参加しませんでした。 一度こじれてしまった関係は、父の頑固な性格上、戻ることはありませんでした。ただ、母とは電話で連絡を取り合い、子どもの成長に合わせて写真を送ったり、レストランで待ち合わせて孫に会わせたりしてきました。
しかし、その母も70歳のときに膵臓がんを発症。気付いたときには手遅れで、入院後わずか2ヵ月で亡くなりました。家事を一切しなかった父がひとり残ることを心配しましたが、関係はすでに修復不可能なほど悪化していました。Aさんが母の葬儀の詳細を知ったのは、父からではなく、叔父からの連絡だったのです。
ひとり孤立した父の最期
母が亡くなったあと、父がどのように暮らしていたのかはわかりません。連絡は再び途絶え、5年の月日が流れました。
父が75歳になったある日、一本の電話が入りました。警察署からでした。
「お父様が、ご自宅で亡くなっていました」
孤独死でした。身元確認のために警察署へ向かい、話を聞くと、実家のポストに郵便物が手つかずになっていたのを不審に思った配達員が通報したとのこと。死因は心筋梗塞でした。
葬儀等を済ませ、遺品整理のために実家を訪れました。23歳で家を出て以来、実家に足を踏み入れたのは母の葬儀のときだけ。それから5年ぶりの訪問です。
実家は、庭の手入れもままならず、まるで空き家のようでした。家の中に入ると、部屋のいたるところが散らかり放題。母が生きていた頃の整理整頓された面影は跡形もなく消え去り、そこには「生活の荒廃」だけが残っていました。
母が亡くなってひとりになった父は、いったいどんな生活をしていたのだろうか……。
遺品整理で見つけた「泥だらけの1万円札」
遺品整理をするなかで、Aさんはあるものを見つけて言葉を失いました。居間のテーブルいっぱいに、Aさんが母に送っていた「孫の写真」が広げられていたのです。
絶縁していた父ですが、ひとりきりの部屋で、孫の写真を眺めながら生活していたようです。遺言書はありませんでした。いまとなっては父の言葉を聞くことはできませんが、そこには確かな「祖父としての時間」がありました。
辺りを見渡すと、居間のソファに脱ぎ捨てられていた、ボロボロの作業着が目につきました。土建会社に勤めていた父が現役時代に着ていたものでしょうか。そのポケットから、泥だらけになった1万円札が出てきたのです。
あとでわかったことですが、父の晩年はひとりで近所の居酒屋に立ち寄ることが多かったそうです。居酒屋の店主によると、父はいつもその作業着姿で現れ、嬉しそうに孫の話をしていたといいます。
余計なお金は持たず、ポケットに1万円札だけ忍ばせて飲みにいっていた父。泥だらけの紙幣は、亡くなる直前に飲みに行った帰りに転んでついたものなのか、あるいは意識を失ったときに握りしめていたものなのか……。「頑固オヤジ」の孤独で不器用な晩年が、その1万円札に凝縮されているようでした。
