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行き先はいつも未知。海外移住から被災地支援に飛び込んだ看護師の仰天半生

行き先はいつも未知。海外移住から被災地支援に飛び込んだ看護師の仰天半生

行き先はいつも未知。海外移住から被災地支援に飛び込んだ看護師の仰天半生_KV

病院勤務10年目となる年に、あえてキャリアを手放した看護師がいます。大阪府在住で看護師歴25年目となる中野智香子さんです。

向かった先は、ニュージーランド。なぜ看護師の仕事を離れて海外移住を決め、長期のブランクを経て、帰国後に災害支援の現場に飛び込んだのか。その背景と原動力を聞きました。

看護師中野智香子さんの経歴

看護師として走り続けた10年間

インタビューを受ける中野さん

──そもそも、なぜ看護師になろうと思ったのか教えてください。

中野さん:祖母の入院先の看護師さんに憧れたことがきっかけです。おばあちゃん子だったので、大切な祖母に優しく接してくれたことがうれしかったんです。

あと、高校生のときに参加したイベントで、意思疎通が難しく寝たきりと思われていた患者さんと接する機会がありました。

当時は病気のこともわからず、ただ側にいたんだと思います。そんなとき患者さんの手がわずかに動いて、私の手のひらに何かを書こうとしているように感じたので、ナースステーションに紙とペンを借りに行きました。

すると、読み取るまで時間はかかりましたが、ご自分の苗字を書いているとわかったんです。このとき初めて筆談でコミュニケーションが取れるとわかり、ご本人もご家族も涙を流して喜ばれていました。ここで「看護の現場ってこんなに感動するんだ」と思い、看護師を目指そうと思いました。

──看護師になってからは、どのような科を経験したのでしょう?

学生時代に受けた循環器科の講義で、心電図を全く理解できなかったことに悔しさと焦りを感じたため、真っ先に循環器科を希望し配属されました。

心電図の勉強をしてある程度読めるようになったら、クリティカルケア(急性期かつ重症患者への看護)に興味が出てきたんです。そこで、看護部に希望を伝え、救命救急センターのICUへ配属となりました。そこでは、交通事故による大ケガや全身やけど、重症感染症患者までさまざまな対応をしました。

ICUでは、一歩間違えると命を落とすリスクと隣り合わせだったので、先輩方も厳しかったです。私が書いた記録を見て「帰れ」と言われてしまい、ICUの隅で半日泣いたこともありました。いま思うと、あのときの先輩方が私の看護師としての基礎を築いてくれたのですが。

──それでも、働き続けられた理由は何ですか?

どの病院でも同じくらい厳しいと思っていたので、病院を変えるという選択肢は思い浮かばなかったんです。あとは、やっぱり仕事が楽しかったからです。多職種が全力で目の前の患者さんの治療をして、そこにご本人の回復力が加わり、徐々に良くなっていく過程を見守ることができる。そんな現場に関われることにやりがいを感じていました。

一方で、救えない命もたくさん見てきたので、悔しい思いも数えきれません。こうした経験を重ねるうちに「自分が頑張ってスキルを高めることで、誰かのためになるのなら」と思うようになり、踏ん張れました。

──そうした経験を経て、ICUのあとはどのような科へ?

ICUを4年半経験したあと、産休・育休を1年取得し、復帰後に配属されたのは救命救急センターの救急外来でした。三次救急の病院だったので、重症の交通外傷や心肺停止状態の患者さんへの対応や緊急手術など、本当に忙しい部署でしたが、たくさんの症例を経験できました。

──復職直後からなかなかハードそうですね……。育児とどう両立していたのか気になります。

残業があると認可保育所では送迎時間に間に合わなかったので、病院近くにあった認可外保育所に預けていました。ここは発熱しても勤務先の小児科を受診させてくれて、預ける時間も柔軟に対応してくれたんです。ひとり親で、フルタイムで働く必要があったのでとても助かりました。

ただ、子どもが4歳になったころ、このまま育児を人に任せきりで良いのかと葛藤しました。「いつ、おむつが外れたんだっけ」「好きな食べ物って何だろう」「好きな遊びは?」こうしたことにすぐ答えられない自分が悲しくて……。

同時に、看護師になり10年が経ち、今後進む道にも悩んでいました。資格の取得や進学なども考えましたが、どれにもワクワクしませんでした。そこで、のちの人生で後悔しないよう、仕事を辞めて子どもと向き合う決心をしたんです。

海外移住で子どもの大やけどを経験

──約10年勤めた病院を辞めてからは、どう過ごしていたんですか?

まず、子育てに集中するため、一人も知り合いのいない場所へ行こうと決意しました。近くに知り合いがいたり便利なサービスが身近にあったりしたら、結局頼ってしまいそうで……。

ちょうどそのころ、ワーキングホリデーでニュージーランドから帰ってきた同期の看護師から、「のんびりしていて良かったよ!」と聞きました。行ったこともなければ、どこにあるのかさえ知りませんでしたが、「じゃ、そこに行ってくるわ!」と、親子で渡航しました。

──え、いきなり海外ですか? 

はい。子どもが4歳で義務教育が始まっていなかったのとオムツなしでも過ごせるようになっていたので、「今だ!」と思い決めました。語学学校入校前のクラス振り分けテストでは、アルファベットから復習するレベルでしたが、3ヶ月間の休暇のつもりで行きました。

ところが、現地で友人ができて毎日が楽しくなりました。それに、働きながら余暇を大切にする環境が、それまでがむしゃらに働くのが当たり前だった私には魅力に感じ、帰りたくなくなったんです。

ビザの関係で一度出国する必要があったので、友人宅に荷物を置いて一旦日本に帰り、すぐニュージーランドに戻りました。そこから、子どもの小学校入学や引っ越しを経験し、計5年くらい滞在しました。

──3ヶ月からだいぶ延びましたね。現地での過ごし方が気になります。

育児に向き合いたいと思い海外を選んだのに、アパートを借りて二人きりで毎日過ごしていたら、軽い育児ノイローゼになったんです。それから、シェアハウスに移ったところ、いろんな国籍の人たちが育児に関わってくれたので、少し気が楽になり楽しんで子育てできるようになりました。

子どもが5歳になってからは現地の小学校に入れたので、私はのんびり語学学校に通ったり育児をしたりして過ごしました。ただ、滞在して4ヶ月が経ち生活に慣れ始めたころ、子どもが上半身にやけどを負う事故にあってしまったのです。

──それは、どのような経緯で……?

シェアハウスのキッチンで、子どもが誤って大鍋に入った熱湯を頭から被ってしまったんです……。応急処置をしたのち急いで救急病院に連れて行きましたが、その病院では重症のため対応できないという判断で、救急車で1時間半かかる国立病院へ搬送され、緊急手術を受けました。

──お子さんのその後の経過はどうなったのでしょうか?

術後2日で退院許可が出ました。「早いのでは?」と感じましたが、当時の私の英語力ではそれを強く問うこともできませんでした。ところが、退院からわずか数日で突然40度を超える発熱があり、ガーゼ越しに膿の匂いがしたので感染症を疑い、すぐ地元の病院に連れて行きました。

ですが、やはり対応できないとのことで、再び国立病院に搬送されました。そこで担当医が「全身状態が悪いため、全身麻酔をかけたら心臓が止まってしまうかもしれない」と告げたんです。私だけでなく子どもにも直接伝えたことは衝撃でした。

さらに、束のような手術同意書を渡され、今すぐサインするように言われました。今のようにスマホもなければ十分なネット環境もないなか、自分が何に同意しているのかわからず手続きを進めました。今思い出しても、自分の無力さを責めずにはいられません。

手術は無事に終了し、後日、皮膚の再生ができなくなってしまった部位に植皮術をして約1ヶ月後に退院しました。

──外国で大変な思いをしましたね。

途中から入ってくれた医療通訳や入院中子どもと遊んでくれたスタッフ、シェアハウスまで来て授業をしてくれた現地校の先生や生徒たちなど、感謝の部分もたくさんありました。

また、異国で大切な家族が生きるか死ぬかという経験をした日本人看護師はそう多くないなと思い、国際看護や外国人患者対応に興味を持つきっかけにもなりました。

インタビュー中の中野さん

──なるほど。お子さんの事故後は元の生活に?

ええ。傷あとは残ってしまいましたが、元どおりの生活に戻りました。私はもう語学学校には通っていなかったので、時間を持て余すようになりました。そんなとき、魚屋を経営する知人が「寿司職人として働かないか」と声をかけてくれ、そこで少し働かせてもらいました。

──長期的な滞在になり、金銭的には困らなかったのでしょうか?

シェアハウスだったので、食料を分け合うなどして出費はそこまでかかりませんでした。お金をかけずに楽しめる自然が豊富なこともありがたかったです。ところが、さすがに5年くらい経つとお金も尽きてきました。

日本での看護師としてのキャリアを考えたとき、これ以上のブランクは作れないと思ったんです。そろそろ戻らないと、もう日本で看護師ができなくなるという危機感もありました。

ですが、海外に5年もいた割に英語力が低い。「履歴書の空欄どうしよう」と焦りました。英語力を証明するスコアを取ろうと考え、ニュージーランドの看護師資格申請に必要なIELTS Academic(英語力証明テスト)7.0を目標にしました。

これまでIELTSの勉強は「自分にはできない」と逃げてきましたが、「これが取れたら帰国して看護師に戻ろう!」と決め、再び語学学校に通い目標スコアを取得しました。現地の看護師資格申請に必要になる学士号は、帰国後に放送大学で取得して、取得の条件が全てそろったところで、日本から現地の看護協会に申請しました。

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