いつまでも輝く女性に ranune
行き先はいつも未知。海外移住から被災地支援に飛び込んだ看護師の仰天半生

行き先はいつも未知。海外移住から被災地支援に飛び込んだ看護師の仰天半生

進んでは現れる壁

──日本に帰って来てからは看護師として働けたのでしょうか?

ええ。救命センターがあり国際看護にも注力している近隣の総合病院に問い合わせたところ、見学する機会をいただきました。当時看護職の募集はしていませんでしたが、これまでの経験やブランクへの不安を素直に話したところ「やってみる?」と言われ、採用してもらえたんです。

──それは良かったですね!

本当にありがたかったです。ところが、入職して1年くらいが経ったころ、ニュージーランドから看護師免許申請の通過通知と実習の案内が届いたんです。「書類審査は通らなかったんだろう」と思っていたので、正直「今さら?」という気持ちになりました。そのころは日本での生活にも慣れ、看護師の仕事の楽しさも実感していましたから。

そこで、迷っていることを看護師長に打ち明けたところ「あなたが努力で手に入れた結果なんだから、納得のいく生き方をしなさい」と背中を押してくれました。

──では、再びニュージーランドに?

ええ。ところが、渡航してすぐにコロナ禍になってしまい、看護実習どころではない状況に。当時息子は現地の中学校に通っていたので、帰国するか迷っている間にロックダウンで帰れなくなりました。

私は知人の小売店の手伝いをして2年半過ごしました。子どもの高校進学に合わせて日本に帰ってきたので、結局現地の看護師資格は取れませんでした。

偶然の出会いから2拠点生活へ

インタビューに答える中野さん

──帰国後は、以前勤めていた国際看護の病院に戻ったんですか?

いえ。コロナのホテル療養看護の仕事に就きました。というのも、2011年3月11日の東日本大震災のときもコロナ禍も日本におらず、医療に従事する友達が大変なときに一緒に働けなかったことがずっと引っかかっていたんです。なので、帰国してすぐ大阪府看護協会に「いまからでも何かできることはないか」と問い合わせました。

──2022年ころはまだ宿泊療養施設がありましたね。

当時は第6波が来たころで、患者が増え続けている状況でした。大阪府の救急車の多くがコロナ患者の搬送先待ちに駆り出されていたので、このままだと交通事故や心筋梗塞などで重篤な状態に救急車が回せず助けられないと懸念されていました。

そこで、搬送先が決まっていない患者さんを一時的に預かる待機ステーションが立ち上がることになったんです。看護協会から「明日からそこで働けないか」という連絡を受け、働くことにしました。そして、この決断が今に続く活動の原点になったんです。

──待機ステーションでの経験が、その後にどう影響したのでしょう?

待機ステーションの運営を担っていたのが、淀川キリスト教病院で救急センター長を務める夏川知輝先生でした。HuMA(特定非営利活動法人 災害人道医療支援会)やJDR(国際緊急援助隊)などで活躍されていて、以前からFacebookで見ていたので、「目の前に本人がいる!」と思い勇気を出して声をかけました。

それまで、災害支援や人道支援は能力の高い特殊な経験を積んだ人だけが参加できるイメージがあったので、私のようにブランクがあっても入れるのか聞いてみたところ「入ったらいいやん」と言ってもらえたんです。すぐHuMAに、のちにJDRにも登録しました。

──これまでの経験やブランクを問わず、参加できるんですね。

ええ。すぐに現場で適切な支援ができるよう、いずれの団体でも定期的に研修や訓練があります。訓練は、テントで寝泊まりするなど、本番さながらの環境でおこなわれます。

その一環で、災害関連の研修を受けた際、たまたまくじ引きでペアを組んだ人がいました。岡山県にある倉敷中央病院で、救命救急センターや総合診療科の立ち上げに関わった國永直樹先生で、この出会いもまたその後のキャリアに大きく影響しました。

──またしても出会いでキャリアに変化が?

そうなんです。研修から数週間後に能登半島地震が起き、被災地支援の帰り道で國永先生と再会したんです。私はHuMA、國永先生はDMATとして被災地入りしていました。

その再会のあと、2025年3月に國永先生は倉敷中央病院を退職し、徳島県にある海陽町立海南病院に移り、医療不足解消だけでなく地域そのものを盛り上げようという取り組みを始めたんです。また、「教育のある職場に人は集まる、徳島の田舎でそれを証明する」と掲げていました。

ただ、看護師不足が顕著で、「どうしたらいいかわからん。一度病院を見にきて」と連絡がありました。そこで海南病院まで行ってみたところ、救急外来、一般外来、病棟、地域包括ケアとあり、退院後も施設や自宅への訪問看護で継続的に地域と関われる体制が整っていました。

また、勤務時間内にランチョンセミナーを実施するなど、多職種への教育にも力を入れていました。海陽町は海産物を中心に食べ物がおいしく、自然にも恵まれた環境があり、ここなら看護師が集まるんじゃないかという直感が働いたので「手伝うわ」と伝えました。

その予想は当たり、4ヶ月間で10名の看護師を中心とする医療職の見学があり、その中には非常勤やワーケーション制度を利用して、実際に勤務してくれている人たちもいます。

海南病院の外観と内観
海陽町立海南病院の外観と開放感のある病棟の廊下

──では、現在は徳島に拠点を置いているんですか?

大阪と徳島の2拠点生活を送っています。コロナ禍では、待機ステーションで働いたあと、大阪コロナ重症センターでも勤務し、その後大阪にあるニ次救急病院に転職しました。その職場は、災害時は支援活動を優先させてくれて、月半分の海南病院での勤務も許可してもらえるなど、私の活動を理解してくださっています。

この2ヶ所以外にも、友人が院長を務めているクリニックと、2025年9月に京都にオープンしたDr.Coming International Clinic Kyoto Stationという外国人専用の国際外来クリニックでも勤務しています。

──4ヶ所も勤務先があるんですね。国際外来クリニックではこれまでの海外経験が活かせそうですね。

海外で患者家族になったとき、「言葉、文化、制度がわからないまま治療を受ける不安」を体験しました。この経験を活かせないかと考えていたことと、大阪府看護協会に日本国際看護師養成研修を勧められ受講したことで、国際看護に挑戦してみようと思ったんです。

日本国際看護師(NiNA)は、外国人患者とその家族に安心して医療を受けられる環境を提供し、医療者に対しても必要な部署との連携を図ります。

ただこの資格で通訳は業務に含まれず、通訳をコーディネートする立場なのですが、自分で通訳もできれば患者さんにも医療者にも役に立てるかと思い、現在は医療通訳の勉強も続けています。

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