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少年院に入った「伝説の総長」が総合格闘家になり、そして非行少年の更生支援へ――なぜ“ヤンチャな子ども”に寄り添い続けるのか

少年院に入った「伝説の総長」が総合格闘家になり、そして非行少年の更生支援へ――なぜ“ヤンチャな子ども”に寄り添い続けるのか

かつて愛知・尾張地区で最大級の暴走族を率い、少年院送致を経験した一人の少年がいた。山本聖悟、師である秋山成勲のSEXYAMAにちなみ「LITTLE SEXYAMA」の名で韓国でも親しまれている総合格闘家だ。

30歳になった現在は、リングに立つだけでなく、社会貢献を行う団体の一般社団法人曙会青年部に所属し、非行少年の更生支援に本格的に携わりたいと講演活動等に力を注いでいる。格闘家を志した朝倉未来氏との出会い、最愛の母への想い、そして格闘技が彼に与えた「更生」の道筋について話を聞いた。(ライター:中山美里)

やんちゃな少年が多い地域で育ち15歳で暴走族へ

どんな生い立ちだったのでしょうか。

山本氏:「愛知県一宮市のやんちゃな少年が多い地域で育ちました。小学生の頃は空手や野球をして、塾にも通うごく普通の子どもでしたね。いわゆる“不良”と呼ばれるようになり始めたのは中学に入ってからです。

小学生の頃に仲の良かった先輩がいたので、中学校で『大ちゃん』って呼びかけたら、『敬語を使え』って言われまして(笑)。その後、不良のイロハを叩き込まれました。『タメでも上下関係をつけたほうがいいぞ』と言われ、同学年の相手とタイマンを張ったりしてました。

そのうち『お前強いじゃん』ってことになって、他校とかと喧嘩があると呼ばれるようになって。自分でも強いと思ってたので、調子に乗ってて、徐々に不良の道に入っていきました」

暴走族に入ったのはいつのことでしょうか?

ヤンチャ時代の山本氏(本人提供)

山本氏:「中学3年の時ですね。地元で伝説と言われていたチーム『SENA』に入りました。入ってすぐにチーム名が『鴉(カラス)』に変わりましたが、当時は一宮をはじめ、江南、稲沢、犬山、津島の尾張地区で50人ぐらいメンバーがいました。

18歳未満が現役で、18歳以上のOB会は300人くらい。週1回の集会があり、現場仕事が終わった後に行っていました」

どんなことをしていたのですか?

山本氏:「買った単車に乗って暴走して、近隣の地域のチームに乗り込んで喧嘩して。ずっと暴走と喧嘩に明け暮れていました。16歳で総長になってからは、憧れだった伝説のチーム名である『SENA』の名前を復活させました。

そこから全力でチームの拡大をしました。他の暴走族と次々と争って、江南から稲沢まで全部倒して尾張地区全体へとチームを拡げていきました。当時はとにかく何にも縛られたくなかったし、自由になりたかった。仲間と一緒にヤンチャをすることで、自分の力を誇示することに必死でしたね。

同時にそこは、家庭や学校などに居場所のない子が集まって助け合える、大切な場所でもありました」

格闘技を始めたのは?

山本氏:「地下格闘技に参戦を始めたのもその頃です。名前を売りたいという思いが強かったので、試合に出れば名前が売れると思って。実際、影響力も大きくなって、完全に調子に乗ってましたね(笑)。朝倉未来さんと知り合ったのもその頃です」

逮捕され、少年院へ。更生を支えた「二人の大人」

その後、逮捕されたそうですね。

山本氏:「はい、17歳の時でした。メンバーが起こした事件の責任を取ったものもあり、強盗罪や傷害など合計6件で立件されました。家裁から検察に逆送されて、国選弁護士が2人付きました。

家裁じゃ無理だと言われていたのですが、母親が熱心に話をしてくれて、『これだけ母親が愛情をかけて育ててくれているのだから、更生の余地があるのではないか』との最終判断になり、少年刑務所ではなく少年院に送られることになりました。

約4か月間もの留置所生活の後、千葉の少年院へ送られました。最初は久里浜、その後に八街です。地元から遠く離れた千葉の少年院になったのは、地元では更生できないと判断されたためでした」

少年院での生活はどうでしたか?

山本氏:「拘束期間は合計で約1年半。とにかく早く出たくて我慢の毎日でした。出院できたのは18歳の2月。高校を卒業する直前でした。

ところで、今の少年院のシステムには疑問を持っています。一切喋ってはいけない、指示に従うだけの生活。でも社会に出れば、嫌な人とも接して自分で判断しなければならない。人との接触を禁じる環境で、人としての成長ができるとは到底思えません」

周囲の予想とは逆に、山本さんは更生されましたが、それは何が決め手になったのでしょうか。

山本氏: 「一番は母親の存在です。母子家庭で育ったのですが、母は大きな愛を注いでくれました。少年院の時もわざわざ愛知から面会に来てくれた。その顔を見て『もう二度と悲しませたくない』と心から思いました。

もう一人は、支援団体セカンドチャンス(当時)の高坂(朝人)さん(現在はNPO法人再非行防止サポートセンター愛知の代表)です。地下格闘技時代からの縁で、少年院にも手紙をくれたり会いに来てくれたりしました。

向き合ってくれる大人が一人でもいるかどうか。その有無で、子どもは変われると思っています。そのために、少年更生に携わりたいと思うようになりました」

出院後、すぐに格闘技の世界へ?

山本氏:「いえ、そうではなかったです。最初は周囲との格差に絶望しました。友達は進学や就職、免許取得と進んでいる。なのに、自分には何もない。違反点数が25点あったので欠格期間が2年。20歳近くにならないと運転免許すら取れない。そんな状態でした。

格闘技へ誘ってくれた朝倉氏(中央:山本氏提供)

でも、高坂さんが手紙をくれたり、会いに来てくれたりしたこと、そして当時『THE OUTSIDER』で活躍し始めていた朝倉未来さんに連絡を取ったところ、『また格闘技頑張ろうぜ』と声をかけてくれました。それらがきっかけとなって、奮起して地元のジムに通い始めることになったんです。

焼肉屋のアルバイトをしながら週5回ジム通いをする中で、朝倉兄弟と一緒に練習することもありました。格闘技が僕の更生そのものになりました」

夢はDEEP王者、そして「少年たちの希望」になること

韓国の格闘技リーグで活躍されていた時期もありましたね。

山本氏:「1年半ほど住んでタイトルマッチも経験しました。自分としては武者修行という気持ちでしたね。当時、ちょうど日韓関係が騒がれていた時期でしたが、現地で嫌な思いをしたことは一度もありません。

僕は母親が韓国人で、韓国名ももっています。ですが、名前や出自でいじめられた経験もありません。むしろ、不良の世界よりも一般社会の方が『戸籍』や『肌の色』で人を判断する差別的な側面があると感じています。人間は心で通じ合える、それが僕の信念です」

今後の目標を教えてください。

山本氏:「目標は2つです。1つは、格闘家として、DEEPのチャンピオンになってRIZINの舞台で活躍すること。リングの上は自分一人。甘えが許されない世界ですが、必ずチャンスがあり、そのチャンスに挑戦し続ける姿を見せたい。もう1つ、人間としては二度と家族を悲しませないこと。これが人生最大の目標です」

いま、道に迷っている少年たちに伝えたいことはありますか。

山本氏:「子どもはみんな透明で、更生するチャンスを持っています。周りの大人が愛を持って接していれば、立派な大人になっていきます。でも、愛を与えられずに育つと心に穴ができてしまいます。向き合う大人がどれくらいいるかで、子どもは本当に変わると思っています。

僕が挑戦し続けることで、かつての自分のような非行少年や、失敗して自信をなくしている人に『やり直せるんだ』という希望を与えられるのではないか。そう信じ、僕は格闘技を続けています。

実は、選手生命が絶たれるかもしれないという大怪我を夏にして、チャンスだった大きな試合を逃してしまいました。ですが、今、また次の試合に向けて再挑戦をしています。何度倒れても、僕はまた立ち上がります」

2026年1月に山本さんは、かつて自分が入院していた八街少年院を訪問し、講演を行うことになっている。

総合格闘家として活躍する姿を、少年院に入院する子どもたちはどのような目で見つめるのだろうか。山本さんの思いを届ける訪問に、密着取材を行う予定だ。

【山本聖悟】
9歳の頃より空手を学び心身を鍛錬も、中学3年で暴走族入り、17歳で総長になるなど、地元で喧嘩に明け暮れ、少年院へ。出院後は、何の資格もない自分への劣等感に苛まれていたが、15歳の頃に出場した地下格闘技大会で出会った朝倉未来氏から「また頑張ろうよ。俺たちまだ若いんだから」とメッセージをもらったことをきっかけに、不良仲間との関係を断ち格闘家への道を邁進。16年3月、DEEP参戦以降、戦績を重ねる。19年にはROAD FC 2019 KO AWARDに選出。21年3月、RIZIN初参戦。

■中山美里
1977年、東京都生まれ。一般社団法人siente代表理事の傍ら、性風俗や女性の生き方などを中心に雑誌、WEBで取材・執筆を行う。性風俗関連の著書多数。

配信元: 弁護士JP

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