
’25年6月に、長嶋茂雄氏が肺炎のため都内の病院で89歳で亡くなって半年余りが経つ。
「巨人ファンではなく長嶋ファン」と豪語するプリティ長嶋氏は、今年6月の長嶋茂雄氏の訃報をどう受け止めたのか。そして、タレントから政治の世界へと舵を切った理由とは何だったのか。
長嶋茂雄氏との知られざる思い出と、政治家としての現在地、そして71歳となる今抱く“これから”について、じっくりと語ってもらった。
◆長嶋監督は生きるために不可欠なもの、「水や空気のような存在」

プリティ長嶋:取材なので並べてみましたが、こうして見ると本当にみんな宝物です。宮崎キャンプで長嶋監督が乗り回した自転車のサドル、サインを書いてもらった背番号3のユニフォーム、イベントでご一緒したときの写真……。ここにあるものには全部思い出がありますよ。
ーー長嶋茂雄さんが亡くなられた際、お気持ちはどうでしたか。
プリティ長嶋:訃報を知ったのは電車の中でした。スマホに来た知り合いからのメールで“監督が亡くなりました”と。ご病気もされていたし、「ついにその日が来てしまったか」というのが率直な心境でした。
ーーやはり寂しさはありましたか?
プリティ長嶋:もちろんショックでしたが、親族が亡くなった時のような喪失感はありませんでした。私にとって、長嶋監督は水や空気のようにずっとそこにある存在でしたから、亡くなっても私自身の心のなかに生き続けています。
ーーもっと落ち込んだかと思っていましたが意外でした。
プリティ長嶋:そうなんです。でも、今回の取材のように後から思い出の品を見ると、一気に記憶が蘇ってくる。それが一番つらいですね。「この時はこんな会話をしたな」とか、その当時の長嶋監督の声が鮮明に蘇るんです。
◆背番号“3”に宿る、たった一つの悔しさ

プリティ長嶋:はい。千葉から宮崎までの約1500キロを、キャンプしながら2週間ほどかけて向かっていました。長嶋監督は毎年「箱根は寒くなかったか?」などと声をかけてくれて、私が乗って来た自転車を気に入ってよく乗り回していました。
ーースポーツニュースでよく見かけた自転車はプリティさんのものだったんですか。
プリティ長嶋:そうなんです。長嶋監督から「乗らせてくれ」と言われたら誰も断れないですよ(笑)。ある年なんて「俺のママチャリはスピードが出なくてダメだ! それに比べてこの自転車いいじゃないか」とたいそうお気に入りで、翌年の監督の誕生日に同じ自転車をプレゼントしました。実は最初は「監督が怪我でもされたら大変なので」とお断りしたんですが、監督がどうしても欲しいとおっしゃったのでプレゼントしました。

プリティ長嶋:自転車をプレゼントした年、私が宮崎に到着したらすでに長嶋監督が私の送った自転車に乗って待っていて、報道陣の前で二人で並んで走ったんです。あの経験は一生の宝物ですね。
ーーほかにキャンプでの思い出はありますか?
プリティ長嶋:2000年、長嶋監督が背番号を33から現役時代に付けていた3に戻すと聞いて、私は監督より先に3番のユニフォームを作ってイベントで着たんです。それを楽屋で監督に見せたら「お前いい背番号付けてるじゃないか」と。「監督はいつ着るんですか?」と聞いたら「まだ言えないよ」と笑っていました。
ーー長嶋さんがジャンパーを脱ぎ、背番号3番をお披露目した映像は大きな話題になりました。
プリティ長嶋:実はお披露目した日だけ私は宮崎にいなかったんです。北海道の仕事で1日抜けた日が、まさに“その瞬間”で。
ーーなんと! 楽しみにしていたのに。
プリティ長嶋:なんでよりによって私のいない日にと思いましたよ。翌日宮崎に戻ったら長嶋監督が「お前昨日いなかったな」と笑ってて。見せてくださいよとお願いしたんですが、「ダメだよ、その場にいなかったお前が悪い」と(笑)。本当に悔しかったですね。

