
遠く離れた実家で暮らす親が、どんな生活をしているのか……。子供世代はふと想像することがあります。特に地方出身者は高校卒業と同時に上京している人が多いため、自分が大人になっても親の姿は18歳のときのまま止まっているのかもしれません。本記事ではAさんの事例とともに、離れて暮らす高齢親の老いについて、長岡FP事務所代表の長岡理知氏が解説します。※相談者の了承を得て、記事化。個人の特定を防ぐため、相談内容は一部脚色しています。
「親の老い」を直視できない世代
地方出身者が大学を卒業し、都会で就職すると、実家に帰って親の顔をみることは極端に少なくなります。メールやメッセージアプリを使える親であれば定期的に連絡を取ることもあるでしょう。しかし連絡手段が電話だけとなると、子供としては少し億劫で、「親とは数年会話していない」ということもめずらしくありません。
しかし40歳を過ぎたころから、数年ぶりに帰省するたび、親の老化を目の当たりにすることになります。白くなって薄くなる髪、掃除が行き届かない家、整理できていない冷蔵庫、開封されていない大量の手紙、読んだ形跡のないまま積みあがった新聞、なんの病気なのかわからないが飲んでいないであろう大量の薬、傷だらけの自動車……。
現役世代の多くは、祖父母のいない核家族で育っています。そのため家族の「老い」を目の当たりにした経験がありません。親の老いの姿をみるたびに死を連想してしまい辛い、と感じてしまう人もいます。それは大人として少々幼いのでは、と感じる部分もありますが、家族の老いを日々みつめた経験がないせいで、親の老いを直視できないのです。
親の「老い」に対して正しい距離感で向き合うことができず、歪んだ形で関与しようとする子供も多くいます。軽度認知障害と診断された親に対して激しく苛立つ息子、一人暮らしの母親が心配なあまり親の生活に過干渉する娘、老いを直視したくないがあまり電話も着信拒否し没交渉を決め込む息子、親の異常行動に狼狽する娘……。
そこには子供と親とのこれまでの関係性が透けてみえることもあります。子供世代が中年世代になるまで親のことをどう考えてきたのか、それが親の老いとの向き合い方に反映されてしまうのです。
母親と二人暮らしになった理由
<事例>
Aさん 48歳 証券会社勤務
月収 150万円
未婚独身
Aさんの母親 79歳
Aさんは宮城県生まれの48歳です。18歳で地元の高校を卒業すると、東京都内の私立大学に入学しました。複数の奨学金を目いっぱい借りたため、大学を卒業したときの奨学金残高は約900万円。実家では母親との二人暮らしで経済的に楽でない生活だったため、大学生活の4年間は奨学金とアルバイトだけでやりくりしました。
Aさんは悲しい環境で育ちました。5歳のときまで兄2人と父親もいたのですが、家族で遊びにいった海で、兄たちと父親が溺れて同時に亡くなってしまったのです。その日、母親は風邪気味だというので家で留守番をしていました。昼下がり、兄たちと父親を救助しようとする人たちで海水浴場は大騒ぎでした。5歳のAさんだけが取り残され、警察に保護され母親のもとに戻ったのは夕方。パトカーからみた夕焼けがやけに眩しかったことを覚えています。
母親は数日間取り乱し、葬儀にも出られず家で寝込んでいたほどでした。
それからの生活は、Aさんと母親の二人暮らし。家族で住んでいた賃貸の家は広すぎたため公営住宅に引っ越しました。冬になると壁が結露し、夏になると熱気がこもるような部屋。幸い、母親は看護師として働いていたため当面の生活費にさほど困ることはありませんでした。しかし子供と夫を同時に亡くしたショックは母親の心を蝕んでいき、夜になるといつも布団の中で泣くのです。Aさんが高校になってもそれは続き……。Aさんはあまりにもの辛気さに母親の姿をもうみたくないとさえ思うように。
母親はAさんに強く依存し、少し帰りが遅くなると気がおかしくなったかのように叱責することもありました。あまりにも病的な依存にAさんも参ってしまいます。
「高校を卒業したらすぐに家を出て、東京に行こう。そこで自分だけの人生を作りたい」そう毎日考えて、受験勉強に励んだのです。
無事大学に合格し、東京に引っ越すときには、母親はまた泣いていました。「そうか、母は俺がいなくなったら本当にひとりぼっちなんだな」と思い、Aさんは途端にこの選択が正しかったのか不安になりました。自宅から通える仙台市の大学でもよかったのではないかと。しかし、悲しさのオーラを身に纏ったような母親から早く離れたいと思っていたことも事実です。
