◆前回までのあらすじ
セレブ専業主婦の愛梨と、自由気ままな独身のまりかとの仲が急速に縮まる一方、仕事と育児で疲弊していた由里子にもある出来事が…。
▶前回:37歳専業主婦、子どもを預けて夜遊びへ。21時の麻布十番で見た“ある真実”とは
ほろ苦い誘惑:由里子(38歳)大手生命保険会社勤務
月曜の朝は、いつも気が重い。
土日を家族で過ごし、すっかり甘えモードになっている美桜を夕方まで保育園に預けなければならないのだから。
「ママ、今日おむかえ、はやい?」
「うん。今日は大丈夫だと思うよ!」
保育園で美桜と別れ、私は急いで白金高輪駅に向かう。
朝の送りが一番大変だったのは、イヤイヤ期が訪れた1歳の後半から2歳の頃だった。4歳になったら楽になるよ、と会社の先輩に言われた通り、最近は割とすんなり保育園に行ってくれている。
けれど、別れ際の美桜の寂しそうな表情を見ると、胸がぎゅっと締めつけられるのはずっと変わらない。
― どうか、今日は定時で上がれますように。
そう祈りながら交差点で信号を待っていると、ブルッとスマホが震えた。
グループLINEに愛梨からメッセージが届いていたようだが、見ようとした瞬間すぐに送信取り消しされてしまった。
「ん?」
誤送信か、それとも、何か言いかけてやめたのだろうか。
朝の陽射しの中で妙な胸騒ぎを覚えたが、スマホをジャケットのポケットに捻じ込み、気持ちを切り替えて地下鉄に滑り込んだ。
出勤してしまえば、思考は完全に仕事モードに切り替わる。
オフィスに入るとすぐ、部署内の朝会が始まった。
私のチームは、30〜40代の女性向け医療・がん保険の新商品や、既存商品のリブランディング、販売戦略の設計を担当している。
「吉村さん、午後イチのミーティング、会議室C押さえてあります。クライアントは予定通り1時に来社されます」
声をかけてきたのは、中途で入ったばかりの後輩。私は軽く頷いて、すぐに今日のアジェンダに目を通した。
「ありがとう。プレゼン資料、シナリオ通りに進められるように一度読み直しておいてね」
「わかりました!」
私は「よろしくね」と言いながら、社内用チャットで関係部署へ資料の追加リクエストを送ると、「週次の競合リリース情報」が届いていた。ライバル会社が昨日発表した新プランに、思わず釘付けになる。
「オンライン申込時の健康診断書の提出を省略し、代わりにアプリ経由の健康管理データを参照するという新しい仕組みを…」
思わず読み上げてしまう。これらはまさに、私たちのチームが次に狙っている領域だ。
「…先を越されちゃったかぁ」思わずつぶやいてしまう。
すると、「…むら。よしむら、眉間」と後ろから声をかけられたので、慌ててモニターから顔を離す。
「あ、成瀬さん。おつかれさまです。またシワ寄ってました?」
私が眉間を手で押さえながら言うと、成瀬は笑いながら頷いた。
成瀬 学。私の1つ上の先輩で、今年の春に私が所属している商品開発部に異動してきた。
「あんまり頑張りすぎるなよ。後輩を上手く使うのも俺らの仕事だからな」
私は「ですね」と相槌を打つと成瀬は「コレあげる」とチョコレート菓子を私のデスクに置いて、立ち去ってしまった。
成瀬は、確か5年くらい前に社内結婚をした。
相手は当時美女すぎると噂になった新入社員で、その美女がすぐに退社になり、成瀬は人事部から結構な嫌味を言われていた記憶がある。
私は社内のホットトピックには全く関心がなかったが、それでも噂が耳に入ってきたのは、成瀬も女性社員から人気があったからなのだろう。
― まぁ、よく見たら…かっこいいのかな。
ランチに行く時間も取れなさそうなので、もらったチョコに感謝をして、モニターに視線を戻した。
「どうしよう…終わらない」
午後イチのミーティングは無事に終えたものの、私の目は時計とPC画面を行き来していた。
今日中に仕上げなければならない資料があるのに、よりによってシステムトラブル。後輩をチラッと見るが、彼女も仕事が山積みで頼めるような雰囲気ではない。
「はぁ…」
定時で切り上げられないことは確実となり、私は頭を抱えた。
今朝の美桜の顔が、頭に浮かぶ。
寂しい思いをさせてしまっているのに、毎日頑張っている美桜。今日は早く行くと約束もしてしまった。胸がギュッと締めつけられる。
『由里子:システムトラブルで仕事が終わらない。美桜のお迎えお願いできる?』
私は祈るような気持ちで、夫の雅史にLINEを送った。
『雅史:え〜今日、飲み会だって言ったじゃん。美桜もママが行った方が喜ぶよ。なんとかなんないの?』
その返信を見た瞬間、鼓膜がキーンとするようなストレスを感じ、思わずスマホを握りしめた指に力が入る。
美桜が私の方が好きなのは、あんたが美桜の世話をしないからだよ…と打ちたいのを我慢して、『来週はいつでも飲みに行っていいから。お願い』と送信すると、雅史から了承の返事が来る。
「よかった…」
その後システムは復旧し、私は19時すぎに会社を出た。しかし、夕飯のことを雅史に連絡しているのに返事がない。
美桜がお腹を空かせていたら可哀想だ。電車から降りると駆け足でスーパーに寄り、適当に総菜を買って帰宅した。
「ごめんね、遅くなって!」とリビングのドアを開けると、雅史と美桜は素麺を食べていた。
「あ…ごはん食べてたんだ。美桜、唐揚げ食べるよね?すぐ温めるね」
美桜に聞くが、娘は顔をしかめた。
「ママのじゃない唐揚げ、おいしくない。いらない」
「由里子、これ酸化した油の臭いがするよ。体に悪いし。やめときな」と雅史も冷たく言い放ち、追加で素麺を茹で始めた。
「……」
その瞬間、涙が込み上げてきた。美桜に見られたくないと思い、とっさにトイレに駆け込む。
ドアを閉めた瞬間、声を殺して泣いた。雅史への怒りと、悔しさ、情けなさ。そういった負の感情が一気に溢れて止まらなかった。
◆
21時。
美桜が寝た後、スマホをチェックすると成瀬からメッセージが来ていた。
『成瀬学:今日は大丈夫だった?』
その一言に救われた気がして、昼間のお礼を伝える。
『由里子:チョコありがとうございました。糖分が足りてなかったので、助かりました。笑』
すると、すぐに既読になる。
『成瀬学:アルコールは足りてる?ワイン飲めるっけ』
そのメッセージに返信しながら私は、出かける準備をしていた。
「ごめん。トラブル対応で会社に戻らなくちゃで」
「マジで?由里子の会社、ほんとクソだな。可哀想に。別に美桜が寝てるならいいよ」
私は「ありがとう」と心にもない礼を言う。
夫に対して腹が立っても、仕事と子育てに追われて、最近は真っ正面から向き合う気力がない。話し合いをするのもケンカするのも疲れるから、こういうときはなんとなくやり過ごすに限る。
誰かと飲んで気分を晴らしたい気分だったからちょうど良かった。相手が成瀬だからなわけではない、と自分に訳のわからない言い訳をして、タクシーで代々木上原の小さなワインバーへ向かった。
店に入ると、キャンドルの灯りが揺れるカウンターで、成瀬がグラスを片手に待っていた。
「来ちゃいました」
「うん、びっくりした。ほんとに来ると思わなかったから」
私はちょっと緊張しながらも、成瀬と同じローヌのシラーをグラスで注文し、一口含む。
スパイシーだけれど、どこかブラックベリーのような果実みのある香りが喉を通っていく。
「大変だったんだろ?今日。もしかして、家でも大変だった?」
「え…バレてます?」
微笑む成瀬の目が、いつもより優しく見える。こんなふうに、ふたりで飲むのは初めてなのに、なんだか心地がよかった。
「もしかして、もう聞いた?俺の離婚のこと」
「そうなんですか?どうして…」
「奥さん若かったじゃん?しかも美人。たぶん、もっと他にいい男を見つけちゃったみたいでさ。子どももいなかったから、すんなり合意」
そう言ってワイングラスを持ち上げる横顔は、なんだか淋しそうだ。
確かに、世の中には成瀬よりもイケてて、稼いでいる男性はたくさんいるかもしれない。
― でも、結婚ってそれだけじゃないのに。
「吉村のところはどうなの?旦那さんとは上手くいってる?」
そう聞かれた私は「すみません、ミックスナッツとチョコレートください」とバーテンダーに言って誤魔化した。
「はは、そんなにチョコ好きだったの。それじゃあ…まずは、競合他社の新サービスの話でもしますか」と言って成瀬は笑った。
言いたくないことは言わなくていい。そう言ってもらえた気がして、心が楽になる。
今日のストレスと、この状況からくる緊張を、私はひたすらワインで流し込んだ。すると、残ったのはふわふわとした心地よい酔いと、「母」でも「妻」でもない、ただの私だった。
最悪な1日を、成瀬が救ってくれた。
解放感からか、私は「もう一杯だけ飲みません?」と成瀬に提案していた。
▶前回:37歳専業主婦、子どもを預けて夜遊びへ。21時の麻布十番で見た“ある真実”とは
▶1話目はこちら:「男の人ってズルい…」結婚して子どもができても、生活が全然変わらない
▶Next:9月17日 水曜更新予定
まりかは颯斗との関係に変化が…

