「(相方を突き飛ばして)俺、外車みたいなもんちゃうかい! お前いじってんのやろ、俺のこと?」
ある日、何とはなしにYouTubeで漫才ネタを流し見していたところ、聞こえてきた言葉にドキリとなった。発言主は、お笑いコンビ「デニス」の植野行雄さん。ブラジル人の父と日本人の母を持ち、2010年代前半に数々のバラエティ番組に出演。掘りが深い外国人風の顔立ちながら、日本名で日本語しか話せないという境遇のギャップを笑いに変え、「ハーフ芸人」というジャンルの確立に貢献した一人だ。
冒頭のやり取りは、妻が外車を欲しがっているが、「見た目だけ」とけなす相方の松下宣夫さんに対して、植野さんがツッコミを入れるというもの。言っているのは植野さん自身のことだが、海外にルーツを持つ人々が日本社会で人知れず抱える葛藤を代弁しているようにも聞こえる。「ハーフ芸人」としてのブレイクから時が経ち、「外国人」に対する視線やテレビの制作環境自体が変わる中で、植野さんは内心何を思っているのだろうか。取材を申し込んだところ本人から語られたのは、現在のテレビ業界では差別表現への配慮から「ハーフ」ネタ自体がやりづらくなっているという現実だった。

◆いじめの対象にならないよう、自ら「ハーフ」をネタにしていった
ーー’25年12月19日に放映された『アメトーーク!』(「もっとやれるはずだったのに⋯2025反省会」回)にコンビで出演し、「ハーフ芸人」として活動していた時期の悔恨を語られていました。そもそも「ハーフ」を漫才の中で扱うようになったきっかけは何だったのでしょう?植野:「デニス」は吉本興業のお笑い養成所であるNSCで結成したコンビです。NSC時代、ライブのつかみに「この顔ですが植野行雄です」と言ってみたら観客のウケがすごく良くて、「あ、これは行けるんや」と思いました。以降は芸人になる前に働いていた西麻布のバーで外国人に間違われた話や、街で職務質問を受けた話なんかを、漫才に積極的に取り入れて行ったんです。デビュー直後の2010年にはハーフネタでいきなりM-1で準々決勝にまで残って、「よっしゃ、この路線行けるんちゃうか」となりました。
ーー「ハーフ」という生まれ持っての属性をネタにすることについて、当時躊躇はなかったですか?
植野:幼少期は片親が外国人というのが珍しく、目立ちやすかったので、まだ受け止められんところがありました。ただ生まれ育った大阪では、自分から笑いを取りにいかないと生きていけない。「そんならしゃあないな」と切り替え、中学3年生頃からは見た目をフリに、積極的に笑いを取りに行くようになりました。
ーー自分から笑いを取りに行くというのは、「ネタにしてしまった方が得だ」という感覚でしょうか?
植野:そうですね。そもそもみんなと顔も体つきも違うので、いじられる対象になりやすい。そこで「やめてよ」なんて言ったら、逆にいじめのターゲットになってしまうかもしれない、それなら自分から進んで笑いにしてしまおう、という先手必勝的なやり方です。
◆「2年目であんなに前に行くやつおらん」

植野:いいともでは増刊号の方で「注目の芸人」としてネタを披露する機会をいただきました。いいともは生放送のイメージが強いと思いますが、増刊号は収録だったので、ネタが終わった後も前に行って喋り続けたんです。そしたら「2年目であんなに前に行くやつおらん」と評価され、レギュラーに昇格しました。
元々NSCには人の薦めで軽い気持ちで入っていて、デビュー当時は「いつ芸人を辞めてもいい」という気持ちでいたのが、逆に良かったみたいです。
4年目には月9ドラマ「海の上の診療所」(フジテレビ系列)に海外ルーツの航海士役で出演し、その後もドラマで外国人役の仕事をよくもらっていました。住まいも恵比寿、渋谷……といいところばかり選んでいましたね。
ーー当時は、どの番組に出ても「ハーフ」としての芸やエピソードトークを求められたと思います。抵抗はありませんでしたか?
植野:何度も悩んだし、ハーフ以外のネタもたくさん作りました。でもM-1みたいに1万組以上も出場者がいる賞レースでは、周囲より少しでも目立つためにメガネやおかっぱなど、みんな「キャラ」を作ってくる。その中で「この顔で七五三も行ってました!」と言うだけで笑いが取れるんだから、ハーフはむしろ「武器」なのかな、と前向きに捉えるようにしていました。

