◆これまでのあらすじ
大好きな豪の自慢の彼女でいるため、20時以降は何も食べないダイエットをしていたのに振られてしまった市子。編集者として活躍するも、恋愛経験に恵まれない双葉。そして、双葉の想い人だった六郎と結婚し、主婦として閉塞的な日々を過ごす早紀。そのころ豪と同じ会社で働く栞は──?
▶前回:「え、もう新しい彼女?」別れて1ヶ月で元彼のデート現場を目撃した女のリアル
Vol.5 <栞:代々木の立ち食い鮨>
さきほど運ばれてきたばかりの大皿のサラダは、すでに空っぽになっている。
なぜって、全て私が小皿に取り分けたからだ。
「はい、どうぞ」
テーブルを共にしている8人分のサラダを、会話とお酒に夢中になっているみんなに渡していく。
そして、サラダを受け取った人はみんな、ニコニコしながら言ってくれるのだった。
「ありがとう、栞ちゃん」と。
栞ちゃんは気がきく。
栞ちゃんは可愛い。
それが、私が職場で言われる言葉トップ2だ。
どっちも間違いなく私を褒めてくれる言葉だし、言われれば素直に嬉しい。
だけど、それらの言葉が持つ本当の意味は、私にだってわかる。
“世間知らずのお嬢様は、何にもしなくていい”。
総合商社という厳しい世界で私に求められるのは、みんなのサラダを取り分けることと、可愛く微笑んでいることだけなのだ。
だって私は、コネで商社に入ってきただけの役立たずだから。
1年前、新卒でこの商社に入社したのは、父に勧められたからだ。
「栞ちゃんは、ここで働いたらいいんじゃないかな。パパがいいようにしておくから」
そう言われるがままに入社した会社が、世間的にはかなりの人気を誇る大手商社であることは、入社してから知った。
父の経営する会社が、重要取引先であることも。
勤務時間が9時5時の一般職の採用なんて、コネ入社以外にはないことも。
もっとちゃんと職場に馴染みたいという想いはある。
もう働き始めて1年も経つのだ。お客様のような立場からいい加減脱却したい。
だからこそ今日は珍しく、こうして部署の忘年会にも出席している。そして、「私だって会社の役に立ちたい」という一心で、一生懸命お料理を取り分けているのだ。
だけどそんな私のやる気なんて、きっと周りの人からすればありがた迷惑なのに違いない。
「あっ、もうすぐ夜10時だよ?栞ちゃん急いで帰った方がいいんじゃない!?」
「あ、でも…」
「そうだよ。夜の新宿なんて危ないし。だって栞ちゃん、門限9時って前に言ってたでしょ」
「それは、そうなんですけど…」
入社した時、右も左もわからないまま色々と話してしまったことを後悔してももう遅い。
私の世間知らず丸出しな日常は、トンデモお嬢様エピソードとしてあっというまに笑い話になってしまった。
部署の中ではすっかり知れ渡ってしまっているし、それはつまり、私がある種の“腫れ物”でもあるということだ。
もしも私の帰りが遅くなったことで、何かあったら…。誰もそんな出来事の当事者にはなりたくないだろう。
役に立てないのならばせめて、迷惑だけはかけないようにしたい。分かっている私は、独りよがりなワガママを飲み込む。
「…はい。じゃあお言葉に甘えて、今夜はお先に失礼します…」
「うん、気をつけて帰ってねー!」
「お疲れさまー!」
そう言って私を見送る人たちの顔がどことなくホッとして見えるのは、被害妄想だろうか?
とにかく、私はいつものように微笑みを浮かべながら、会釈をして忘年会会場を後にするのだった。
店を出ると目の前に広がっているのは、22時の新宿の街だ。
さっき会社の人にからかわれたように、通常門限が21時の私にとっては馴染みのない光景だ。であると同時に、少し寂しい気持ちにもなる。
「今日は忘年会だから、帰りがすごく遅くなっちゃうかも!って、ちゃんと家族に言ってきたのになぁ…」
こんな調子で私は、ちゃんとした大人になれるのだろうか。
今はまだ社会人1年目だけれど、いつかは社会で役に立てる人間になりたいと思っている。
父に言われるがままに入った会社だけれど、腰掛けじゃなくて、ちゃんと仕事ができる女性になりたいという夢を抱き始めている。
それから…。
実はもうひとつ、密かに夢見ていることがあるのだ。
それは、素敵な男性と出会って恋をすること。
周りの親族を見ていても、父の行動パターン的にも、きっとあと2、3年もすれば私は、お見合いなどを始めなくてはならないはずだ。
だけどできれば私は、自由に恋愛がしてみたい。ドキドキしたり、ときめいたり、人を大好きになってみたい。
幼稚園から大学までの女子一貫校で育ち、23歳になる今も、彼氏ひとりいたことがない。
そんな私は、社会の役に立つ女性になりたいと思うよりもずっとずっと前から、「素敵な男性と出会って恋がしたい」という夢を密かに持ち続けている。
「あーあ、みんないいなぁ。羨ましい」
雑踏の中でひとり、そんなことをつぶやく。
夜の新宿を歩く人々の中にはカップルも多く(というか、ほとんどがカップルで)、鳥籠の鳥のような気分の私からしてみると、心の底から羨ましく感じたから。
だけど、誰にともなくつぶやいたその独り言は、ある人の耳にしっかり入ってしまっていた。
「なにが羨ましいの?」
ぎょっとして後ろを振り向く。
「!?」
そこに立っていたのは、部署の先輩…。あまり話したことはないけれど、みんなから「豪さん」と呼ばれている人だったのだ。
「ご、豪さん。いや、羨ましいっていうのは、あの…あれです!」
まさか「カップルが羨ましい」とは言えない私は、慌ててラーメン屋さんの看板を指差す。
「…ラーメンが?お腹空いてるの?」
「いえ、あの…」
― しまった。これはこれで恥ずかしい!
どうにか誤魔化さなくては、と思った私は、苦し紛れの策で反対に豪さんに質問する。
「豪さんは、どうしたんですか?忘年会、まだまだ続いてますよね」
「いや…なんか、もういいかなーって。こっそり抜けてきちゃった」
「もういいかなって、そんな」
「や、今のはダメだな。みんなには内緒ね。実は他に行きたい店があってさ」
「内緒ね」と言った豪さんはちょっと茶目っ気のある感じで、まるで小さな子供みたいだ。いつもの落ち着いた大人っぽい感じとは印象が違い、意外性を感じる。
「へぇ、どんなお店ですか?」
その親しみやすい雰囲気につい会話を深掘りしてしまうと、次の瞬間。豪さんは少しためらいがちに聞いてくるのだった。
「そっか。栞ちゃん、お腹空いてるんだよね。…もし、少し歩く元気あったら、一緒に来る?」
◆
新宿の忘年会会場前から、徒歩15分。
「ラーメンじゃなくてごめんだけど」
そう言われてたどり着いたのは、代々木駅近くの雑居ビルだった。
― これが、豪さんが忘年会を抜けてまで来たかったお店…?
にわかに、胸がザワザワと不安を覚え始める。
22時半、会社の先輩とはいえあまり話したことのない男性とふたりきり。
「え…一緒に行ってもいいんですか?」
日頃、取引先のお嬢様として腫れ物扱いを受けている私に、気軽に声をかけてくれた。それが嬉しくてそう即答してしまったけれど、無防備に付いてきてしまったのは軽はずみな行動だったかもしれない。
ここまで歩いてくる道中、突然街中でライトアップされたクリスマスツリーがすごく綺麗だったことが、すごく遠い昔のことのように感じる。
「この階段の上がったところ。暗いから気をつけて」
― パパ、ごめんなさい…。きっとこれは、門限を守らなかった罪への罰です…!
豪さんに言われるがまま私は、逃げることもできずに薄暗い雑居ビルの階段を上っていく。
だけど、階段の先で豪さんが開けた扉の先から聞こえてきたのは、怪しさとは全く無縁の清潔で快活な声だった。
「あい、いらっしゃいませー!お待ちしてましたぁ!」
「ごめんね、お客さん。そこ2名さん入るからちょっと詰めて!」
コンパクトながら賑やかな店内の中央には、L字方のカウンターが構えられている。
先にいた5、6人のお客さんが、私たちのために間を空けてくれる。不思議なことに、店内の全員が立っていた。
「ここ…お鮨屋さんですか?」
驚く私に、豪さんは言った。
「そう。紹介制の立ち食い鮨。お客さんから紹介してもらったんだけど、めちゃくちゃ人気でずっと来られなくて。
さっきちょうどキャンセルが出たって情報が出てたから、つい忘年会抜けてきちゃった」
「お鮨、好きなんですか?」
「うん。鮨とラーメンが好き。この二つは、がんばって研究してるんだよね」
そう語る豪さんはまた、さっきと同じ子どものような顔をしている。だけど、そんな無邪気な表情のまま、こんなことも言えるのが不思議だ。
「好きなもの好きなだけ食べなよ。人の分取り分けてばっかりで、ろくに食べてなかったんでしょ」
「…気づいていたんですか?」
「栞ちゃんにちょっと似た人、知ってるから。頑張りすぎるのもほどほどにね。さ、食べよ」
提供されるお鮨は、どれもこれも絶品だった。
自慢じゃないけれど、私もちょっとしたお鮨通である自負がある。銀座や麻布の名店には幼い頃から父と一緒に足を運んでいるし、父の会社のパーティーでは有名な職人の方を招いたことも少なくない。
だけど、このお店のお鮨は、そういった一流鮨とは全くの別物だった。
手の込んだ、というより、素材を活かした豪快な握り。
ネタの順番など誰も気にせず、好きなものを好きなタイミングで注文する明快さ。
そういうダイナミックな美味しさに、立ち食いというスタイルがこの上なくマッチしている。お上品に膝を揃える必要はなく、舌の上で躍る車海老と一緒にステップを踏んだっていい。
気がつけば私は、車海老を3回もおかわりしてしまっているのだった。
お店を出た頃には、時刻は24時近くなっていた。
「あ〜、美味しかったぁ」
深夜とは思えないほど満腹になったお腹をさすりながら私が言うと、豪さんがからかうように言う。
「もう、羨ましくない?」
照れ隠しで乱暴に「おかげさまで」と言い返すと、豪さんはやっぱり、小さい子どもみたいに笑った。
虎ノ門に住んでいるという豪さんと一緒に、タクシーに乗り込む。
「それにしても栞ちゃん、いい食べっぷりだったなぁ」
「ありがとうございます。だって…」
「だって?」
「深夜に食べるごはんって、なんだかいつもよりも美味しく感じません?こんなこと初めてで、嬉しくて!」
「ははは、わかる」
タクシーの車内での会話はそんなとりとめもないことばかりだったけれど、信じられないほどに楽しかった。
麻布の家に送ってもらうまでに、父からも母からも数件の着信とLINEが入ったけれど、この時間を大切にしたくて、全て気づかないふりをした。
こんなこと、人生で初めてだ。
「そうなんだよ。食べるのって、楽しいのになぁ…。女の子って、やっぱり太ることとか気にする子多いよね。
栞ちゃんは、そういうの気にならないの?」
― 豪さんは、太ることを気にする女の子との思い出があるんだ。
そんなことにピンと来てしまって、胸がちくんと痛むのも、人生で初めてのことだった。
そして、タクシーを降りるまでに男の人にこんなことを言うのも、やっぱり初めてのことになる。
「良かったら、また一緒に美味しいもの食べたいです。夜遅くでも、何時でも」
▶前回:「え、もう新しい彼女?」別れて1ヶ月で元彼のデート現場を目撃した女のリアル
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
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早紀の夫・向井への気持ちが消せない双葉。他の男性とのデートで…

