庶民階級の出身でありながら、天下人にのぼりつめた秀吉。そんな秀吉は、いかにして出世していったのか。現在よく知られている若い頃のエピソードは、じつは史実ではないものも多いという。

◆豊臣秀吉が足軽から城持ち大名になれた理由

しかし、継父の竹阿弥と折り合わずに出奔。このおり母の仲が永楽銭一貫文を与えて励ましたと伝えられる。
その後、針の行商や鍛冶屋の弟子など多くの仕事を転々とするもうまくいかなかった。そのため、矢作橋で出会った盗賊の頭である蜂須賀小六(正勝)の仲間になったという。
やがて、駿河の今川義元の家臣・松下加兵衛之綱に仕え、納戸役(出納係)まで出世したが、松下家の家臣たちの嫉妬を受けて解雇されてしまう。
仕方なく故郷の尾張に戻り、つてをたよって地元の信長に仕えることになった。そんな秀吉は寒い冬の日、主君のことを思い信長の草履を温めていた。それに感心した信長は、秀吉に目をかけるようになったという。
ただ、この逸話は江戸後期の『絵本太閤記』が初出なので、史実とは考えられない。
◆一夜にして城をつくりあげた?

信長は斎藤氏の支配する美濃を攻略しようとするが、なかなか斎藤氏の居城・稲葉山城を落とすことができない。そこで長良川沿いの墨俣に出城を築こうとするが、敵の妨害にあって失敗してしまう。
すると秀吉が「私にやらせてほしい」と信長に直訴。信長がこれを許すと、筏をつくって木曽川の上流から次々流し、墨俣で分解して木材とし、一夜にして城をつくりあげた。
これが有名な墨俣一夜城の逸話である。ただ、これも史実かどうか怪しいのだ。
秀吉の足跡が当時史料で判明するのは永禄十一年(1568)以後のこと。この年、信長は将軍の弟である足利義昭を奉じて上洛し、彼を将軍にすえて室町幕府を復興した。
このおり秀吉は奉行の一人として京都の統治を担っている。

