◆庶民階層から頭角を現す

ただ、比較的史料価値の高い『川角太閤記』には、秀吉が小田原北条氏を滅ぼし鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れたさい、安置されている源頼朝座像に向かって「私もあなたも天下をとった。だから友達ですね。けれどあなたは、清和源氏の嫡流、天下をとって当然の家柄です。それに比べてこの私は、氏も系図もない草刈り童から身を起こしたのです」。
そう自慢したと書かれている。となると、秀吉の出身は士分ではなく、農民や足軽など庶民階層だったと思われる。
実父の弥右衞門は、秀吉が幼いころに戦争の傷がもとで亡くなってしまい、母の仲は竹阿弥という人物と再婚したとされる。そんな秀吉には、姉弟妹がいた。
姉は一般的に「智、とも」と呼ばれているが、その名は当時の史料では確認できない。秀吉より三歳年上だといわれるが、弥助(のちの三好吉房)と結婚して秀次、秀勝、秀保の三人の男児をもうけた。
◆秀吉の活躍に翻弄された親族の人生
長男の秀次は、秀吉の跡継ぎとして関白となった。秀勝は浅井三姉妹の江(のちの将軍秀忠の正室)と結婚して女児をもうけ、秀保は豊臣秀長の娘と結婚して婿養子となった。いずれも豊臣政権を支える重要な存在だった。だが、秀勝と秀保の二人は若くして死没し、秀次は秀吉から謀反を疑われて切腹させられたうえ、その妻妾と子供たちは皆殺しとなった。
秀吉の弟というのは、すでに紹介した豊臣秀長のことである。秀長は秀吉をよく補佐し、やがて名代として秀吉の天下統一に大きく貢献する。その活躍ぶりについては、のちほど詳しく語っていこうと思う。
秀吉の妹も当時の史料では実名がわからないが、後世の史料では朝日や旭と呼ばれている。秀吉より六歳下の天文十二年(1543)生まれだといわれている。
彼女はのちに徳川家康の正室となったが、二人のあいだに子は生まれなかった。
弟の秀長と妹の朝日は、『太閤素性記』では、秀吉や智とは父親が異なるとしている。秀吉と智は弥右衞門の子で、秀長と朝日は竹阿弥の子だというのだ。いっぽう、四人とも仲と弥右衞門の子とする書もある。
いずれにせよ、秀吉の姉弟妹が秀吉の驚くべき栄達によって、その人生が大きく変わったのは間違いない。

