明治政府が国民統制の切り札として約1000年ぶりに戸籍制度を復活させ、1872年から編製された壬申(じんしん)戸籍。しかし、この壮大な国家プロジェクトは、わずか1年で深刻な問題を露呈した。
本来一致しなければならない戸数と戸主数が10万人分も合わない、人口が突然30万人以上増える、といったずさんな記録が行われたほか、兵役逃れにも悪用され、歴史にその名を刻んだエリートや有名人たちも“抜け道”を使用していたという。
本連載では日本の「戸籍」とその歴史について、政治学者の遠藤正敬氏が解説。第3回では戸籍制度が生み出した混乱について取り上げる。
※この記事は遠藤正敬氏の書籍『戸籍の日本史』(集英社インターナショナル)より一部抜粋・構成。
最初からつまずいた戸籍制度
鳴り物入りで出立した明治初年の壬申戸籍であったが、早々につまずきをみせた。
壬申戸籍の編製が沖縄を除く全国で完了したのは、1873年3月のことである。内務省戸籍局の報告によれば、実施から1年2か月の間に全国で3万1000冊余りの戸籍簿が整備されたという。
しかし、さすがに突貫工事であったことは否めなかった。何しろ、壬申戸籍においては戸籍届出の期限が設けられておらず、届出の過怠に対する罰則もなかったため、出生や死亡などの届出は緩慢かつずさんにならざるを得なかった。
さらには、戸籍を作る側の役人たちの戸籍に対する無理解も大きかった。実際に内務省による調査報告をみてみよう。まず、本来ならば戸数と戸主数とは一致しないとならないのに、戸数の方が戸主の人数を10万以上も上回る年がある。
これは住人のいない家屋も「一戸」とみなすなど、戸籍の意味を理解していない調査が行なわれていたことが原因の一つであった。
また、人口についてみても、1874年から3年続けて30万人以上の増加がみられる。この唐突な「人口増加」について、内務省戸籍局は戸籍に記載されていなかった者が相次いで届け出た結果であるとみていた。
当時の記録を見ると、戸籍局の役人たちが「国民が戸籍制度について無知である」ことを大いに嘆いていたことがわかる。壬申戸籍の成功に賭ける政府の目論見とは裏腹に、多くの国民は「笛吹けど踊らず」であった。
徴兵逃れに悪用
戸籍制度の遂行にとって思わぬ障壁となったのは兵役である。すでに述べた通り、戸籍は兵役とも密接な関係にあった。全国の徴兵適齢の男子を把握するには、出生年月日が記載されている戸籍が基本資料となる。
日本の徴兵制は1873年の徴兵令に始まる。その告知として1872年に政府が発した「徴兵告諭」には「血税」「生血」という文言が踊り(「西人之ヲ称シテ血税ト云フ。其ノ生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ」)、本当に生血を抜かれるのではないかと恐怖を感じて憤慨した民衆が各地で「血税一揆」を起こしたのは有名な話である。
さらに、戸籍が徴兵と結びついたものであると察知した民衆は、壬申戸籍にもその矛先を向けた。
特に高知では、戸籍は成年男子の「膏(あぶら)」を抜き取って異人に捧げるための基本台帳であるという流言が広まり、1871年の大晦日に約1000人の民衆が蜂起し、役場を襲撃して戸籍を破棄するという大掛かりな戸籍反対一揆(通称「膏取り一揆」)が起こっている。
これらの流言に基づく一揆はともかく、働き盛りの青年を奪われることへの不満は農民を中心に根強くあった。
しかも、この徴兵制度には大きな抜け道があった。徴兵令は満17歳から40歳の男子を対象に「国民皆兵」を原則としてはいたが、戸主、長男、養子、家産・家業の管理者については兵役を免除するものとしていた。
国民軍の一日も早い整備は政府の悲願であるが、それによって経済的に困窮した一家が離散したり、あるいは戸主や跡取りが戦死して一家が根絶やしになっては元も子もないことは政府も理解していたのである。
しかるに、そうした政府の配慮は裏目に出た。この免役規定は「抜け穴」として民衆に利用されたのである。
二男以下の徴兵適齢者が、他家の養子となったり、家から独立して別の家を創立する「分家」によって戸主の地位を得たり、さらには戸籍を偽装して戸主や長男であると詐称したりと、民衆はあれやこれやの策を弄して徴兵逃れを図った。
「法の番人」さえも抜け道を使った
特に目立ったのは徴兵逃れを目的とする養子縁組である。これは当時、「徴兵養子」という言葉まで生まれた。極端な例ではあるが、1874年12月『東京日日新聞』には次のような記事が出ている。
新潟県海老瀬(えびがせ)村(現在の新潟県新潟市東区)の僧侶が徴兵逃れのために隣村の寺の娘と婿養子縁組をしようと図った。しかし、その「花嫁」はまだ6歳の幼女であったという。当時、婚姻適齢を規定する民法がまだ存在しなかったとはいえ、さすがにこのような不純な動機での「早婚」は認められなかった。
著名人にも徴兵養子となった例は少なくない。内務大臣や立憲政友会総裁などを務めた政治家・鈴木喜三郎(すずき・きさぶろう)は川島家の二男として生まれたが、徴兵適齢を迎えると徴兵を逃れるべく檀那寺の和尚と養子縁組して鈴木家の家督を相続した。
鈴木は判事、検事を経て司法次官、さらには検事総長、司法大臣まで務めた典型的な司法官僚である。まさに「法の番人」の総元締めとなった人間も徴兵逃れの過去があったのである。
また、近代日本を代表する彫刻家として名高い高村光雲(たかむら・こううん)も、23歳の時に師匠の姉が独身であったのでその高村家に養子に入り、「中島幸吉」から「高村幸吉」となった。ちなみにこの高村光雲の息子が『智恵子抄(ちえこしょう)』を遺した詩人にして彫刻家の高村光太郎(たかむら・こうたろう)である。
このように、歴史にその名を刻んだエリートや有名人たちも徴兵逃れに走ったのである。

