この街に翔子を託していく。それが私の終活です
長い間、人に迷惑をかけてはいけないと思っていた泰子さんですが、翔子さんが一人暮らしを始めてから「この世はやさしさに満ちている」と実感したと言います。
「あるとき商店街の女性と翔子がトラブルを起こしたんです。すぐに電話をしたら『これは翔子ちゃんと私の問題ですから、お母さんは口を出さないで』と言われました。そのとき彼女が翔子と向き合って一緒に問題を解決しようとしてくれていることがすごくうれしくて。その方と翔子は今もとても仲良しなんですよ」
そして2022年、80代を前にして終活を意識した泰子さんは、大きな決断をします。自身が長年住み、書道教室を開いていた家を思い切って処分。商店街に翔子さんの居場所となる画廊を兼ねた家を建てたのです。
「1階が翔子の画廊、2階が書道教室、3階が作品の倉庫で、4階に翔子、5階に私が住んでいます。4階と5階は勝手に行き来できず、暮らしは完全に別。料理上手な翔子がこの間ハンバーグを持ってきてくれましたが、一緒に食べるのは年に数回で、堂々たる一人暮らしを続けています。
ここは翔子の名義にしたから、追い出される心配がない。お金のことがわからない翔子のために後見人も決めました。死後のことは支配できないけれど、やれるだけのことはしたから、あとはこの街に翔子を託していく。これが私の終活です」
闇がなければ光はない。苦難のときに道が開けます

今は各地で個展を開き書家として活躍する翔子さんですが、「決して書家を目指していたわけではなかった」と泰子さんは話します。
「翔子の父親は、翔子が14歳のときに心臓発作で倒れて亡くなりました。突然のことで遺言も何もなかったけれど、『翔子は書がうまいから、二十歳になったら個展を開こう』と話していたんです。
翔子が18歳で高校を卒業後、作業所に就職するはずが失敗してしまって、この先どうしようかと深い闇に落ち込んだとき、ふと翔子の父親の言葉を思い出し、生涯一度きりの個展を開こうと思いました」
この個展が大反響を呼び、「うちでも個展をしませんか」とたくさんの方から声がかかり、「いつの間にか翔子は書家と呼ばれるようになっていた」と泰子さん。これまで国内外で開いた個展は500回を超えました。
「闇がなければ光はないと私は思うんです。闇が大きければ大きいほど、待ち受けている光も大きい。苦難のときに道は開けます」

