原子力規制庁の職員が中国出張中に公用スマホを紛失したことが報じられ、国家機密の漏洩(ろうえい)さえ懸念される事態として、世間に大きな衝撃を与えている。当該職員がスマホを紛失した経緯は不明なものの、翻ってわれわれ一般市民の日常に目を向けても、スマホの紛失は決して他人事ではない。
警視庁が発表している「遺失物取扱状況(令和6年中)」によれば、東京都内だけで「携帯電話類」の遺失物届は年間22万7337件に上る。単純計算で1日約600台。我々が日常を謳歌しているその裏で、想像以上に多くの人たちが、青ざめた顔でポケットを探っている。
「日本は落とし物が戻ってくる安全な国」と言われたのは今は昔。前出統計同年の「拾得届(届けられた数)」は約14万7000件。つまり、警察に届け出たケースに限っても、単純計算で約4割のスマホは持ち主の元へと帰ってこない。
都内に勤務するA氏(53歳)も、その4割に飲み込まれた一人だ。彼は、新しいiPhoneを手に入れてからわずか数日で、地獄を味わうことになった。
「野生の勘」汗まみれで新宿の夜をさまよう
A氏がスマホを失くしたのは、昨年8月の深夜2時過ぎの新宿。馴染みの酒場をハシゴし、ほどよく酔いが回ったところまでは覚えていたという。しかし、次に意識が浮上したとき、彼は閉まったシャッターの前――某地下鉄駅の入り口で、温いコンクリートを感じながら横たわっていた。
ハッと目が覚めた瞬間、得も言われぬ胸騒ぎがA氏を襲う。「ない」。左右のポケット、そして鞄の奥。どこをまさぐっても、明確にスマホと財布の感触がない。酔いは一瞬で引き、代わりに冷や汗が全身からドッと噴き出す。
スマホがない現代人は「驚くほど無力」(A氏)だ。現在地の確認、警察への連絡、家族・友人にこの緊急事態を伝えることもできない。A氏は当時の状況を「まるで過去からタイムスリップしてきた人間。野生の勘だけを頼りに動くしかなかった」と振り返る。
情けなさと不安で泣きそうな気持ちを抑え、記憶の糸を辿り向かったのは、テレビの警察24時系番組で見た歌舞伎町方面の交番。慣れた様子で書類を差し出す警官の前で、A氏は手続きを行う。
警察から交付される「受理番号」の取得。これこそが、キャッシュカードやクレジットカード、そして携帯回線の停止手続きにおいて、「私は正当に紛失を届け出た」という唯一の証明書になる。過去5回【写真①】、泥酔の末に財布を失くした経験のあるA氏は、この手続きの重要さは痛い程理解していた。

全身酒の匂いを漂わせ泣きそうな中年男に誠実に対処してくれた警察官には感謝しかないとA氏は話す。
しかし、スマホの遠隔ロックや回線停止の方法がわからない。深夜3時過ぎ、まだ開店していた酒場の店主から携帯を借り、交番で教わったキャリアの連絡先に繋ぎ、なんとか二次被害を食い止めた(同時にカード類の停止手続きも行う)。
無一文になったA氏に、店主は「帰りの電車賃に」と1000円を貸してくれた。始発の山手線に揺られながら、「自分だけは大丈夫(携帯を落とさない)と思っていた根拠なき自信」(A氏)が、どれほど脆いものだったかを痛感したという。
海を越えて届いた強気なメッセージに…
翌日、A氏は現実を突きつけられる。「月額数百円をケチった」結果、盗難・紛失サポートサービスには未加入。補償をつけなかったため、代わりのiPhoneの割引購入などはできず、新品はまた十数万円を出して購入する必要があるが、金銭的に余裕はない。
ある調査では、スマホ保険の加入率は26.6%(「オカネコ スマホ保険に関する調査」2025年9月)。A氏のような「油断」は、実は日本人のマジョリティなのかもしれない。
幸い、下取りに出さなかった旧型のiPhoneが自宅にあり、SIMを再発行しデジタル上の生活はなんとか復旧。SNS・メールや現金決済・銀行アプリへの不正アクセスもなかった。
「高い授業料だったけど大事に至らずに済んだ、と強引に自分を納得させました」(A氏)
現物がないまま48か月続く本体代のローンを「負債」として受け入れ、静かに事件は幕を閉じた…はずだった。
2か月後の10月、事態は不穏な展開を見せる。新しい(が古い)スマホのSMSに、見知らぬ番号から英文のメッセージが2通届いたのだ。
『よお! 今使っているiPhone 16Eを買ったんだが、中には君のメッセージ、メール、カード、銀行情報、メモ、個人情報が全部入ったままだ。君が転送したSIM番号まで入っていて、君への電話もこっちに届いている。データは消去されていなかったぞ。保険の請求はしたか? 中国のWi-Fiに接続されてから脱獄(ジェイルブレイク)されたが、まだ(ステータスが)『保留中』のままで、リモートでは消去できないようになっている…』【写真②】
翻訳にかけても意味を理解できないA氏。個人情報? 中国のWi-Fi? Apple ID削除? いったいどういうことなのか。不穏な用語が並び、紛失したスマホが良からぬ状態であることは確か。あの夜のように全身からべっとりとした汗が吹き出る。
続いてAppleサポートを名乗る発信者からは、図解付きで「デバイスリストからあなたのIDを削除してください」という丁寧な案内も届く【写真③】。
数日前のニュースが脳裏をよぎる。ロンドン警視庁が、盗難されたスマホ4万台を中国へ密輸した窃盗グループを一斉摘発したという記事だ(《10月8日BBC 他》ちなみにロンドンで盗まれた携帯電話の数は、2020年の2万8609台から2024年には8万588台と、過去4年間でほぼ3倍に増加しているという)。
新宿で失くしたスマホは、ブラックマーケットを経て、海を越え、中国の地へと渡ったというのか。
消えない負債とささやかな抵抗
対処に迷うA氏は、AIにそのメッセージの真偽を問うた。
《警告:これは詐欺です。絶対に指示に従わないでください。デバイスを削除すれば、犯人の思うツボです》
発信者側の狙いは明確。A氏に「デバイスリストからの削除」をさせることで、アクティベーションロック(Appleデバイスが紛失・盗難された際に、第三者がデバイスを勝手に使えないようにするセキュリティ機能)を解除させ、中古市場で「新品」として高値で転売する。
彼らの送ってきたメッセージは、親切心などではなく、盗品を金に換えるための依頼だということ(あるいは購入者からの可能性もあり)。AIはさらに、データ漏洩リスク増大の可能性も付け加えた。
それから数日間、発信者グループ(それぞれ異なる番号)からのメッセージは、時に脅迫的に、時に懇願するように届き続けた【写真④】。しかしA氏は、それらをすべて無視し、着信拒否の設定を繰り返す内、SMSは徐々に届かなくなったという。
あのスマホは世界のどこかで「ただの文鎮(AI訳より)」と化しているのだろうか。それが、国際犯罪組織(おそらく)に対してできる唯一にして最大の抵抗だと思いながらも、「いつまたあのメッセージが届くのか、個人情報は流出していないか、この先も心の底から安心はできないです」(A氏)
A氏のケースは決して特別でなく、日常的に起こるトラブルだ。日頃のスマホ管理、特に酒宴での取り扱いには充分注意したい。
毎月携帯電話の利用明細を見るたびに、否が応でもあの日を思い出し胸がチクチクするというA氏。「今年こそは、絶対酒を止める!」。新年に誓ったA氏は、あの夜店主から借りた1000円をいまも返せないままだという。

