同作はヤンキーやギャルの男女11人による恋愛リアリティショー。山奥にある学校「羅武上等学園」で2週間の共同生活を送りながら、卒業式での告白に向けて恋愛を繰り広げるという趣旨である。
この作品をプロデュースしたのは、元ヤンという経歴をもつMEGUMIだ。まず、まともに学校に通ってこなかったであろうヤンキーの男女を学校に集めて共同生活を送らせるという設定が素晴らしい。

◆ヤンキーの気質があれば「停滞」が起こりにくい
同時に衝撃でもあった。1978年生まれの筆者が中学生の頃にはこういうヤンキーがわずかながら存在したが、令和の現在にもいたという衝撃。海外で『ラヴ上等』は「ヤクザテラスハウス」と呼ばれているそうだが、この通り名は土台が狂っているからこそである。恋リア飽和時代の昨今、みんなどこかで新しいものを求めていた。そのタイミングに、「反社会性×恋愛」というかけ合わせを思いついたMEGUMIの目の付けどころに「まだ、この手があったか!」と膝を打った。
ヤンキーという軸を加えたことで生じる効果として最も期待できるのは、恋リアにとって最大の敵である「停滞」が起こりにくいという点だ。うれしくなったり怒ったり、なにかしらの感情が生まれたら即行動。だから、恋が生まれるのも秒。結婚年齢が早いでおなじみのヤンキーだが、この生理が『ラヴ上等』にナチュラルなスピード感を与えてくれるはず。
◆見世物小屋のように消費してしまうのは…
加えて、世界中に向けて配信される番組内でコンプラ度外視のヤンキーたちが思いっきり「殺すぞ」と口走る直球勝負ぶりは、多くの人にカルチャーショックを与えるはずだ。懸念する点がないわけではない。特定の属性の人たち(ヤンキー)を集め、安全圏からおもしろがる見世物小屋のようなエンタメ、スラムツーリズム的な構造に気づくと、「これはやっていいことなのだろうか?」と危うさを感じなくもない。
後述するが、『ラヴ上等』には複雑な出自や背景を持つ参加者が少なくない。それらをネタとして消費してしまう危うさである(参加者当人は納得しているのかもしれないが……)。
同様の出自、背景に悩む人が『ラヴ上等』を見てダメージを受けるもケースだってあるかもしれない。そういう意味の危うさがある。とはいえ、一気見してしまったのだが。

