庭師の出現

禅宗の一派、臨済宗の高僧であった夢想疎石(1275-1351年)は、宗教・文化的な権威として足利幕府将軍の相談役であった一方、最初に名が残る庭師・造園家としても知られます。寺院における作庭、維持管理は修行の一部をなすものであり、そうしたなかから、特に優れた能力を発揮する作庭の専門家が現れるようになります。作庭はまた、室町時代の芸能活動の担い手となった河原者の守備範囲にもなっていきます。
庭園文化の黄金期

京都・西方寺庭園は、夢想疎石が改修した、苔寺の通称で親しまれる世界的な名園のひとつです。庭園は2段構造で構成され、下段には回遊路が池を囲み、静謐な美が佇む浄土の世界を表し、上段には枯山水庭園の先駆けとなる石組による山水風景が、厳しい禅の修行の世界を示すといわれます。長い間、手入れもなく荒れ果てた時期の後、再び門が開かれたとき、そこには時間と自然の力が刻まれ、侘び寂びの美を体現する苔むした庭の姿がありました。

また、借景の最初期の例として知られる天龍寺庭園も、疎石の作庭によるものです。借景は、遠景を意図的に庭園の景観に取り込むことによって、限られた庭園空間を外に向かって開く、日本で特に洗練されていく空間構成の手法です。

室町時代には、歴代将軍、なかでも義満と義政が夢想疎石の創作を敬愛し、作庭に力を入れました。これにより今日世界遺産として知られる金閣寺庭園、銀閣寺庭園をはじめとする、伝統的日本庭園の典型となる庭園が次々と誕生し、庭園文化の黄金期となっていきます。

いずれも池泉を中心に構成される回遊式の庭園であり、さまざまな象徴を持った石組、また武家の建築様式である書院造り建築に合わせた、室内からの眺めを重視する座観式の構成といった、日本庭園の伝統となる手法が展開されていきます。

戦国時代から安土桃山時代にかけては、武士の権力の表象としての側面が重要視された豪奢な庭園が造られる一方で、千利休の侘び茶とともに出現した、対極的な侘び寂びの美学を体現する露地・茶庭が発展していくのも興味深いところです。これについても、連載の続編でご紹介いたしましょう。

