港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:最低なことをする彼でも「愛しているからいい」と思ってしまう女性心理とは
「余命、1年くらいだそうです」
やけに明るく放たれた明美のその言葉を疑ったわけではない。けれど困惑で固まったともみに、明美はさらに笑顔を大きくし、「ルビーちゃんには絶対に内緒にしてくださいね」と繰り返した。
「なぜ、ルビーには伝えないんですか?」
「だってあの子が知ってしまったら…」
「優しすぎて、あなたに同情してしまうから?」
明美は否定も肯定もせず、ただ恥じ入るように唇を噛んだ。
「謝る資格すらないことは、分かっていました。でもこのあと…入院することが決まっていて…ルビーちゃんの前から本当に消えてしまう前に…」
一目でも会いたかったのだろう。明美が詰まった言葉を想像しながら、まともに一緒に暮らしたこともないのに、ルビーの優しさが分かるものだろうかと不思議に思う。
そもそもタイムリミットを知らされたからと、慌てて後悔を手繰り寄せようとする、その姿勢にも共感できない。たとえそれが――命の終わりであっても。
― …って前の私だったら、突き放しただろうな。
けれど今は、明美の話を聞いてみたいと思っている。なぜルビーを捨て、その後どんな人生を歩んできたのか。そこに少しでも、ルビーが救われる何かがあればいいと、願っているからだろうか。
「ここからは…ルビーの、お母さんだということは一旦忘れます」
え?と驚いた明美に、ともみは微笑みながら言葉を重ねる。
「だから明美さんも、ルビーのお母さんとしてではなく――ただ1人の女性として、誰にも言えずに苦しんだことを、今日ここで、吐き出してしまってください」
迷うように視線を落とした明美を、ゆっくりと待つつもりで、ともみは湯呑を手に取った。ジャスミンのような香りがするはずの白茶、白毫銀針(はくごうぎんしん)だが、既に香りも失い、指先に触れる温度も低い。
「入れ直してきますね」
冷えてしまった茶器を温めるためにカウンターに戻り、ともみは水を足したケトルをIHプレートに置いた。ピッと短い電子音が、そしてシュンシュンとお湯が沸く音も、沈黙の広がる店内でやけに大きく響く。
「今度は温かいうちに是非」
入れなおされた白茶の甘い香りに誘われるように、明美は茶器を手にした。一口含んで、おいしい、と呟く。そして言葉に迷うように、口を開いては閉じることを何度か繰り返したあと、ようやく顔を上げた。
「私は本当にバカだったから……ともみさんには、呆れられちゃうと思うんですけど…」
「呆れたとしても、口にしませんから」
軽い口調でおどけたともみに、明美が少しだけ微笑んだ。
「私は……結局、あの人にしがみついてしまいました」
さっきは、別れたと言っていたはずなのに。疑問を浮かべたともみを察知したかのように、明美の笑みが自虐で歪んだ。
「あの人にとって私は、2番目の妻でした。それが分かったから、許されることではないと、別れを選んだはずでした。でも離れてからも、私はあの人を恨むことも、嫌いにもなれなくて。それどころか恋しい気持ちが募ってしまった。自分から別れを告げたのに、ずっと、ずっと、考えてしまう。会いたくて、会いたくて、狂いそうでした。
そのうちに、バカな考えがよぎりました。彼だって私と別れたかったわけじゃない。私さえ2番目の女でいることを受け入れたら、ずっと一緒にいられるのではないかと。
そして彼に連絡してしまったんです。2番目の家族でいいから、私とルビーを捨てないでって。
でもあの人の答えはNOでした。それなのに私は…拒まれれば拒まれるほど、彼に執着して…その執着が、全てを壊してしまったんだと思います」
「壊した、とは?」
その先を促しながらも、ともみは少し聞くのが怖いと思った。
「彼には社会的立場もあったし、ばれた以上、重婚からはもう手を引きたかったんでしょう。彼の弁護士から、これ以上連絡をしないで欲しいと、大金を条件に交渉に来た時も、お金よりも、ただ彼に会いに来て欲しいことを伝えました。アメリカの家族の邪魔は絶対にしない。日本にいる間だけの家族として過ごせればそれでいいからと。
でも彼は私たちに会いに来るどころか、その時既に日本からいなくなっていたみたいなんです。そしてもう、二度と日本には…」
ウソで騙して子どもを作った挙句に、後始末は他人に任せて逃げ出した。むしろ、そんな男が、今ルビーの父親だと名乗っていなくてよかったと思うほどの最低っぷり。ともみはこみ上げる怒りを、白茶を飲むことでなんとか抑えた。
「私もルビーちゃんも、完全に捨てられたんだと、その現実を認めなさいと、母にも随分叱られたのに、私はずっと、受け入れることができないままだったんだと思います。
それでも何とか新しい生活を始めたつもりだったんです。でも…」
思い出せば苦しくなったのか、明美は胸を押さえて、小さく細く息を吐き出してから続けた。
「誰よりも会いたいのに、会えないその人に、ルビーちゃんはどんどん似ていきました。私の誕生石がルビーだから…彼からの初めてのプレゼントはルビーで。2人の宝石が生まれるねって、ルビーって名前も彼が選んだから。
ルビーちゃんのことが愛おしくて仕方ないのに、瞳の色が同じ、笑顔が同じ、とふいに彼が現れるんです。そのうちに息ができないような苦しさで動けなくなったりして。忘れようとすればするほどダメで…」
「だから…ルビーから逃げだしたんですか?」
明美は黙ったままうつむいた。ともみは苦々しい気持ちになる。
子どもを産んだからといって、誰もが自動的に良い母親になれるわけではないことは、まだ子どもを産んだことのないともみにも理解できる。けれど、明美のベクトルは。
― 去った男に向きすぎていた。
子役としての娘を支えることに全身全霊を注ぎ、むしろ夫を蔑ろにしていた感さえある母に育てられたともみには、想像もできず、今すぐルビーを抱きしめに行きたい気持ちにかられた。
「彼とはどこで出会ったんですか?」
「大使館のパーティでした。日本初上陸のカリフォルニアワインのお披露目会を彼が主催していて。私が20歳になってお酒を飲めるようになった記念に母が連れて行ってくれて」
ともみは、ルビーが浅草にある老舗料亭の孫であることを初めて知った。明美もそれなりのお嬢様として育ち、インターナショナルスクールに通っていたことから英語はネイティブなみに堪能。有名私立大学の英文学部に在学中に、ルビーの父親と出会ったのだという。
その時、男は33歳だったというから、大人が子どもに手を出した感は否めないけれど、夢中になったのは明美の方らしい。パーティの後すぐに、男性の会社にインターンに入ることになり、プライベートの案内もするようになると、2人はすぐに恋人同士になったという。
日本では英語が通じないことが多い分、外国人は英語が話せる女性と恋に落ちやすい…という光景を、ともみは港区でも散々みてきたけれど。
「この場限り…というか、遊ばれてるとは、全く思わなかった?」
「母にも同じことを言われましたけど、彼のことを信じていましたから。彼は愛を言葉にも態度にも表してくれたから…」
自虐的な笑みを浮かべて明美はもうひと口、白茶を口にした。「甘みが増した気がします」と微笑んだはずの瞳から、涙があふれていく。
少女のように澄んだ涙。それがイヤミなく似合ってしまっている。「泣くなんて、ほんと情けない、ごめんなさい」と慌ててぬぐう仕草にも、あざとさは全く感じられない。
華奢すぎるほどの体に小さな顔。港区には美容医療に惜しみなく金を投じた年齢不詳な男女が溢れているけれど、明美の場合は、そのルックスも雰囲気もナチュラルに若く、44歳にはとても見えない。
― この人は、大人になる前に、母親になってしまったのかもしれない。
邪気のない幼さは、明美の魅力なのだろうが、ともみにとっては最も苦手なタイプと言っていい。
― ルビーのことを思えば、怒りたいことも沢山ある、けど。
余命宣告を受け、明美に残された時間が限られたのならば、やり直せることはそう多くない。ならば過ちを責めることも問い詰めることも、もう無意味な気がした。それに。
― ある意味、明美さんも被害者だと思うから。
◆
男に捨てられた後、明美とルビーは、明美の母と共に浅草の実家で暮らし始めたという。けれど明美の心は壊れていき、やがて過呼吸をおこして倒れ、救急病院に運ばれてしまった。
明美は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)だと診断された。心から愛した男に裏切られたショックが、その男に似ている娘を見ると蘇り、耳鳴りやめまい、過呼吸を起こし、時に失神する。愛の結晶であるはずの娘が裏切りの象徴へと変化し、娘を深く愛しているはずなのに…と自分自身を責めて苦しむという負のループが起こっていると診断された。
その頃には明美は幻覚も見るようになっていた。お前は愛される価値がないバカな女だと、沢山の黒い影にあざ笑われる幻覚。その影の声は全て、明美を騙して捨てた男のものだったという。
絶句し固まったともみに、私が弱かったんですよ、と悲し気に明美は笑った。
明美はしばらく入院したが、なんとか退院してからも、症状は改善したとはいえず、ルビーとの生活を始めると、発作がぶり返し、症状はむしろひどくなってしまった。そのうちに、ルビーと離れて暮らさなければ、過呼吸から失神し命を落とす危険や、幻覚から娘を攻撃してしまう可能性があると、医師に診断されてしまったという。
こうしてルビーは祖母に育てられることになり、明美が家を出て、遠方の病院に入院することになったのが、ルビーが6歳の時だったらしい。
「とはいっても、私はこの頃のことをぼんやりとしか覚えていないので、あとからお医者さんに説明してもらったんですけどね」
「もしかして…記憶がないのは、病気のせいですか?」
本当に情けないんですけど…と明美は、ともみの質問から逃げるように目を伏せた。
「倒れる少し前…母とルビーちゃんと3人で、実家で暮らし始めた頃からの記憶がおぼろげなんです。当時母が弁護士さんと、彼を訴える準備をしていたりしていて、それを私が泣いて止めたりした…とか、あとで弁護士さんから聞いたんですけど、あまり覚えていなくて」
医師には、飲んでいる薬の影響もあり、PTSDで記憶が飛ぶことは珍しくないと言われたという。
「だから…ルビーに言った最後の言葉も…?」
思い出せなかったのか。ともみの問いに明美は、弱々しく頷いたけれど。
「ルビーが覚えてくれていてよかったですね」
「え…?」
「絶対迎えに来る、って明美さんが約束したことを。記憶が消えちゃうくらい苦しい毎日の中でも、明美さんはルビーを手放すつもりはなかった。それがあの頃の本心だったってことですから。たとえ…明美さんが覚えていなくても」
明美は、少しの沈黙の後、「それでも私がルビーちゃんを迎えに行かなかったという事実は変わりませんから」と微笑んだ。
ルビーは6歳から、祖母との2人暮らしになった。想定外だったのは、明美の症状が根深くなかなか改善しなかったこと。さらに明美が家を出てすぐに、料亭の経営不振を狙った外資系ホテルからの買収攻撃が始まり、心身ともに負担がかかったせいなのか、祖母が病に倒れ、明美が家を出た2年後に亡くなってしまったこと。
祖父はもう数年前に他界していたし、明美は他に姉弟はおらず、頼れる親戚もいない。こうしてルビーは、母の帰りを待たずして施設に預けられることになった。それがルビー8歳の時だったという。
明美は悔し気に唇を噛んだ。
「その頃はもう、記憶がない…ということはなくなっていたんですが、完治、というわけにはいかなくて」
幼いルビーを思えば、なんと苦しく悲しい状況なのだろう。施設に入る前に…何か方法はなかったのか。ともみは歯がゆい気持ちで聞いた。
「施設に入る前に…迎えに行くことはできなかったんですか?」
「行きましたよ」
と少しだけ強くなった明美の語気は、「でも…」と、すぐにしぼんだ。
「…ダメだったんです。私じゃ、ダメだった」
◆
「…ってことは今、お前の代わりに、ともみがお前の母親とタイマンしてるってことか」
「タイマン…って。ミチさん、ヤンキー上がりがバレるよ?ってまあ隠してないのか」
母親と決別する…という一大イベントを経てTOUGH COOKIESを後にしたルビーは、そのまま帰る気にはなれず、BAR・Sneetのカウンター席に勢いよく座りこむと、母親との事情を知る店長のミチに、今夜の出来事を興奮のまま洗いざらい喋りきっていた。
「…大丈夫なのか?」
見る人が見ればわかる程度、ほんの微かに表情を曇らせたミチを、あ~、とルビーがからかう。
「ともみさんのことが心配?ミチ兄って、ともみさんのこと好きだもんね」
ミチがルビーを睨んだタイミングで、カウンターに座る客からウォッカトニックの注文が入った。
― ミチ兄とともみさんでカップル成立っていうのも、ワンチャンあると思うんだけどなぁ。
誰の気持ちが誰に向いているのか、人の好意の矢印を読み取ることが得意なルビーは、無愛想極まりないくせに、実は誰にでも平等に優しいミチが、ともみのことはちょっと特別…ということに気づいている。
でもともみには大輝という恋人ができて超ラブラブだし、ミチの元カノが登場してひと悶着…ということもあったばかりだし。今すぐ恋のベクトルが動くことはないか…と、少しホッとした自分の気持ちを、気づかないふりで胸の奥…どころか腹の奥に押し込もうとしたとき、ウォッカトニックを客に出したミチが、ルビーの前に戻ってきた。
「オレが心配してんのは、お前だよ」
「…え?」
「痛いならそう言え。痛みをごまかして不感症になるな」
まるで怒っているような口調が、ルビーの胸に染みわたり、隠していた傷口を探りあててしまう。
― いやだ、ダメ。そこに触れられると。
ヤバい、と思った時はもう遅かった。視界が歪み頬を熱いものが落ちていく。ぽろぽろとこぼれたそれは、ぬぐってもぬぐってもカウンターに落ち、やがてルビーはしゃくりあげ始めた。
「泣きたきゃ我慢するなっていつも言ってるだろ。お前は変なところだけ強がるからな」
ミチが小さなため息にさえキュンとしてしまうなんて重症だと、ルビーは自分の恋心に腹が立った。
そう、ルビーはミチに恋をしている。ミチにとって自分は妹のような存在で、女性として眼中に入れてもらえないと知っているから、一度も気持ちを伝えたことがないけれど、もう随分長い間の片思いだ。誰と付き合ったとしても、誰より大好きなのはミチ。隠し続けてきた秘密の恋だ。
明るくて正直なルビー。みんなが思う自分のキャラに、報われない片思いなんて似合わないし恥ずかしくて、やめてしまいたい。なのにずっと諦めきれないのは、ミチがいつも、必要なときに、必要な言葉を、そしてとびきりの優しさをくれるから。それにそもそも。
― かっこいいんだもん。
外見だってドタイプなのだ。190cmを超えるマッチョな体も、肩ほどの長髪を1つに結んでいるのも、眼光の鋭い瞳も、その下にある傷さえも。色っぽい指先や、薄い唇にはいつか触れてみたいし…と言い出したらきりがないと、ルビーは溜息をついて涙を拭いた。
「…今日はミチ兄のオゴリってことでいい?」
わざとふてくされた口調で甘えたルビーに、ミチが、フッと笑った。その笑顔は反則だよ、大好き!!と叫びたくなったのは、今、かつてないほどに弱っているからだと、ルビーはごまかすように言葉を足す。
「ジントニックお代わり。それとお腹もペコペコだから、スパイスカレーも大盛りで」
めんどくさそうに、でも断ることなく動き始めたミチを眺めながら、もうしばらく…もう少しだけでいいから、誰のものにもならないで欲しいと、ルビーはひっそりと願った。
▶前回:最低なことをする彼でも「愛しているからいい」と思ってしまう女性心理とは
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
▶NEXT:1月20日 火曜更新予定

