港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「恋をしなければ、生きられない…」恋愛依存症の母を持つ娘の苦悩とは
「明美さんは、ルビーが言うように本当に…男性を選んで、幼いルビーを捨てたんですか?」
ともみは、明美を断罪する気はなかった。それでも、幼いルビーがどれだけ寂しく、哀しい日々を過ごしたのかを思わずにはいられず、つい言葉が尖りそうになってしまう。
「ルビー、私が言い過ぎたら止めてね。あと、聞くのがつらくなったらすぐに教えて」
ルビーはただ小さく頷いた。いつもは太陽を向くひまわりのような女の子が、ともみと明美の視線から逃げるようにうつむいたまま。それがともみの胸をまた、軋ませる。
それでも、というより“だからこそ”、ともみはただのお悩み相談なら立ち入ることのないところへ踏み込んでいく。
「ルビーに今まで言えなかったこと、伝えてこなかったことはありませんか?」
明美と別れた時まだ6歳だったルビーが、別れの理由を正しく理解できていない、もしくは大人たちが故意に伝えなかった可能性は高いのではないかという希望をこめたともみの質問に、明美はほんの一瞬、虚をつかれたような顔をしたが、すぐに大きく微笑んだ。
「そんなの、沢山ありますよぉ~。何から話せばいいかわからないくらい沢山。でも一番は、ずっと愛してる、かな、やっぱり」
「…ふざけんな。愛してるって言葉にゾッとしたの、はじめてなんですけど。ふざけんな。愛してる、なんて……アンタが使っていい言葉じゃねーんだよ」
「やっぱり…そうだよね、ごめん」
えへっと微笑んだ明美の謝罪に、ふざけんなという唸り声が聞こえたかと思うと、2度目のふざけんな!は叫びになった。カウンターを飛び出しそうになったルビーを、ともみが羽交い絞めで抑える。自分の瞬発力も捨てたものじゃないなと思いながら、ともみは聞いた。
「…なにするつもりだったの?」
「…わかんない」
「暴力も乱闘も絶対ダメ。言葉なら、何言っても許すから」
「……はい。ごめんなさい」
ルビーはシュンとした様子で、背中から(必死に)しがみついていたともみにくるりと向き直ると、ギュウッと抱きしめた。長い腕にすっぽりと包まれたともみは改めて体格差を感じながら、ルビーの背をゆっくりと数回撫ぜた後、その体を抜け出した。
「大丈夫ですか?」
ルビーの激しさに驚き、少し怯えている様にも見えた明美をともみが気遣うと、明美は童顔をさらに幼くさせ「私もごめんなさい」と頭を下げた。素直な人なのだろう。母と娘の類似点をまた見つけて、ともみは心で微笑ましくなる。
先ほどから明美は、ノンアルのビールにほとんど手をつけていない。半分ほど減った水のグラスに常温のミネラルウォーターを注ぎ足してから、ともみは「2人とも少し落ち着きましょう。次に喋りだすきっかけは私が出しますので」と、しばしの沈黙を提案した。
◆
明美が家を出たのは6歳の時で、8歳から中学を卒業するまで施設で育ったのだと、ともみはルビーから聞いていた。
施設に入った後もしばらくは、ルビーの誕生日やクリスマスなどに明美からの手紙やプレゼントが送られてきていたという。
「施設に入ってからも、たま~にだけど会いに来てたんですよ。でも何か月に一回とか決まってるわけでもないし、誕生日とか行事のある日でもなくて。会いに来るペースのパターンみたいなものがないからワケわかんなかったですね。会ったら会ったで、なんかそそくさと帰っていくし。
小学校の卒業式にも来てたかな。でも近づいてもこないし、ただ遠くから見てるだけなんですよ。私から話しかけに行く理由もないんでほったらかしにしてたら、そのうちにいなくなってる。気まずいなら来なきゃいいのに何しに来たんだよ、って感じ。わけわからな過ぎて、なんかウケるでしょ」
「親ガチャって言葉は大キライだけど、まあアタシもハズレたってことだよねぇ」と、ケタケタと笑ったルビーの次の言葉を、ともみは一生忘れられない気がしている。
「あの女がマジで最悪だったのは、“すぐに迎えに来るからね”って出て行ったってこと。も~めちゃくちゃ悔しくて、恥ずかしくて、情けないけど、バカみたいにそれを信じて待ち続けてきた6歳のルビーが、アタシの中に今もいるんだよね。
でも……もういい加減、その子を楽にしてあげたくてさ。
アタシには母親なんていないし、必要ない。そのお別れというか卒業の儀式的なものを、ともみさんに見届けて欲しいんです。いっそ…お前なんて産むんじゃなかったって言って欲しいもん。そしたら、未練とかバッサリ、ぜーんぶ、切り捨てられそうだから」
そんな決意を、ルビーは宮城から明美を連れて帰ってくる新幹線のデッキから電話で伝えてきた。電波が不安定で時々途切れてしまい、お互いに何度かかけ直しながらの会話となったのだが。
「こんなに電波の悪いとこから話す内容じゃなかったですね、ウケる~」
ルビーはおどけたけれど、何年かぶりに自分を捨てた母親に会い、決着をつけるために一緒に東京に向かうなんて。きっと覚悟していたよりも、ずっと強く――言葉にできない感情がこみ上げているはずで、ともみはうまく返事ができなかった。
「電話しちゃって、すいません」
自分がひどい苦しみの中にいるときでさえ、ルビーは相手を気遣うことを忘れない。そんなルビーに、せめて今夜だけは。
― 誰よりも、何よりも、自分を優先して欲しい。
ともみの脳裏に会ったことのない、6歳のルビーの姿が浮かんだ。そして明美を見据える。
「明美さん、もうこれ以上茶化したりごまかしたりせずに、本当のことを教えてください。6歳のルビーには無理でも、今の…強くて賢い大人になったルビーになら、話せるんじゃないでしょうか?
明美さんは今夜、ルビーの誘いを受け入れてここに来た。それは、ルビーときちんと向き合うためだったのではないのですか?」
ともみは、常に真実が正しいと思わないし、優しいウソもあることも知っている。けれど今夜ここで交わされるべきものは、真実だけでいい。そう願ったともみに、明美は困ったように微笑んだ。
― やっぱり、年齢不詳だな。
幼い子どものような純真さ…とは言い過ぎかもしれないが、明美の瞳にも表情にも濁りが感じられない。わが子を捨てた女という響きが似合わない…とともみが思ったとき、明美は言った。
「ともみさんがうらやましいです」
思いもよらぬ言葉に、え?と反応したともみに、明美の笑みは深くなった。
「先ほどからのお話も態度も、全部正しくて、理性的で。きっとどうにもならない感情に負けるなんてことはないんでしょうね。私もそんな大人になれていたなら、良い母親でいれたでしょうか」
「それは、どういう意味でしょう?」
「ともみさんは、誰に何と言われても、その人と一緒にいるためなら……全てを捨ててもいいと思えるような恋をしたことがありますか?」
は?と、苛立ちを声にしたルビーがまたも爆発する前に、ともみは急いで、明美の質問の意図を理解せぬまま、その先を引き取る。
「その質問の答えは、実はYESです。今、まさにそんな恋を始めたばかり、だと思っています」
「ともみさん…?」
なぜまともに答えるのだと言わんばかりに、明美からともみに移ったルビーの苛立ちを、ともみは微笑みで受け止めて続けた。
「今、生まれて初めて心から恋をしたと言える人と一緒にいます。彼のためなら、多分私はなんでもしてしまうでしょうし、誰に何と言われても彼との恋愛をやめることはできないと思います」
大輝のことを誰かに話すのは、普段ならとても気恥ずかしいけれど、今の最優先は、ルビーの解放。そのためには明美の質問から逃げるわけにはいかない。
「人生で初めて、心から大好きになった人です」
恥ずかしさを押し殺しつつも本心を明かしたともみの答えが意外だったのか、明美が驚きの表情のままで聞いた。
「その大好きな人って、恋人…ってことですよね?」
「ええ、付き合いはじめたばかりですけど」
「もちろん…というか、既婚者、じゃないですよね?」
「はい、お互いに独身です」
うらやましいな、と明美が呟くと、ルビーが腰に巻いていたサロンを外し、カウンターから勢いよく出た。
「ルビー、どこいくの?」
「ごめん、ちょっともう聞いてられないので。その恋バナ的なやつが終わったら呼んで。その人、タクシーに押し込んで帰すくらいはするから」
「逃げるんだ」
乱暴な足音が止まり振り返る。ルビーに睨まれたのは初めてかもしれないと苦笑いしながら、ともみは続けた。
「私が信じられない?」
「…」
「今逃げ出したら、今までよりも悪化するけどいいの?今日で、いろいろ卒業するんじゃなかったっけ?」
ルビーはふくれっ面のまま黙り込み、しばらくともみを見つめた後、怒りに任せたようにドスンと、カウンター席の後ろに配置されているソファー席に座った。十分にともみと明美の話が聞こえる位置だ。
ともみは、明美がお土産でもってきてくれたかまぼこを数切れ皿にもり、ルビーが大好きな白ワイン…シャブリと共にルビーの席に運んだ。
「そんなに怒ってばっかりだと、お腹すいたんじゃない?」
「これ、美味しかったよ」と薦めたともみに、ルビーはお礼も言わず、拗ねた様子を崩さなかった。こんなに幼く見えたのは初めてかもしれないと、そのフワフワの頭を撫ぜたくなったが、これ以上機嫌を損ねても…と、やめておいた。
「…あの…ともみさん」
ともみがカウンターの中に戻ろうとしたときだった。明美が立ち上がり、ルビーの前のソファー席に座った。
「私も、こっちに座ってもいいでしょうか?」
― って、もう座っちゃってるけど。
ともみの突っ込みは言葉にならず、ルビーも呆気にとられ、口が開いてしまっている。
「それにあの…」
明美が言いにくそうに続けた。
「ルビーちゃんには、かまぼこよりも、エビのすり身が入った練り物の方が。昔からルビーちゃんの大好物なので…だから、だからそっちも出してあげてもらえますか?」
― こういうところも遺伝する、のかな。
まるでこれまでのやり取りを忘れたように…というか、あんなに激しく拒まれながら、許可もとらずにルビーの前に座る強引さと、突拍子のなさ。ルビーと出会った頃には随分、ルビーのそんな行動に驚いていたなと、ともみは懐かしく思いだした。
言われた通りにエビを始めとしたすり身を皿に盛りつけ、追加の2杯のシャブリと共に、テーブルに運んだ。
「本当にいいんですか?白ワインで」
一杯はともみの分だが、もう一杯は明美が、せっかくだからルビーちゃんと同じ白ワインをお願いします、と頼んだのだ。
「ノンアルの美味しいワインもありますよ?」
「いえ、よく考えたらルビーちゃんとお酒を飲む機会なんて、これが最初で最後になるかもって思って」
― 最後にならないで欲しい、けどな。
ルビーにとっては酷い母親だという事実は確かに存在している。けれどともみは、先ほどからどうしても明美を嫌いになれずにいる。
「つか、今はエビアレルギーになったんで」
ルビーはそう言い張り、“エビの練りもの”を全く無視することにしたようだった。つい先日、ルビーと中華を食べにいったともみは、エビチリをお代わりするほどにたいらげたルビーが、アレルギーだなんて大嘘だと知っている。
それにルビーはかまぼこや練り物は大好きなはずだ。大輝と箱根旅行に行った時に、お土産は老舗店のかまぼこがいいとせがまれたくらいなのだから。
「アレルギーってどれくらいの?甲殻類のアレルギーって、酷いと命の危険もあるって聞くけど…大丈夫なの?」
明美は今日初めて眉根を寄せて、ルビーを覗き込むようにして聞いた。ともみが、「アレルギーはウソなんです」と言いたくなるくらいに、心から心配している様子だったけれど、ルビーは鼻で笑い飛ばした。
「心配するとこ、そこじゃないっしょ」
真正面に座っているのに視線すら合わせようとしない娘に、明美は、そうよね、と呟き、よし、と姿勢を正した。
「ずっと…。ずっと間違ってばかりで、本当にごめんね」
「…は?」
「バカでどうしようもないママで。男の人に簡単に騙されて、ルビーちゃんに、取返しのつかないひどいことをしてしまった。本当にごめんなさい」
深く頭を下げた明美を、それマジで言ってる?と、ルビーが口を歪めて笑った。
「アレ、ちょっと待って。アタシ今、アンタに、生まれてはじめて謝られたんじゃね?」
「ごめんなさい」
もう一度謝った明美に、ルビーは唇を強く噛みしめながらも笑っている。その瞳が激しく揺れて、今日初めて、明美を真っすぐに射貫いている。
「もういい。とにかくアタシは今日で終わりにしたい。だから、アタシはなんで捨てられたのか、なんでアンタが迎えに来なかったのか、それだけ教えて。そしたらもう二度とアンタに会わない。言ってくれたら、アタシにはもう母親はいないってことにして、一生近づかないからさ」
明美が、言葉を発しかけてやめた。ルビーがシャブリを勢い良く飲み干す、その喉ごしの音がやたらと響く。ともみも2人を見守ることしかできない沈黙が、どれだけ続いただろうか。
「私が…恋をしてはいけない人に恋をしたから」
明美の声は、掠れ、震えていた。
「なにそれ。やっすい縦型ショートドラマ的なセリフ。自分の過去に酔うのもいい加減にしなよ。だいたい、アンタは…っ」
言葉を続けられなくなったルビーの手を、ともみがぎゅっと握り、その背中を撫ぜる。
「大丈夫、私がここにいる。だから一緒に、明美さんの話を聞こう。全部話してもらおう。ね?」
ともみに縋るような眼差しを向けたルビーが落ち着くのを待ってから、先を促すと、明美は絞り出すように、語り始めた。
「あなたのお父さんは、アメリカで商社…貿易会社を経営していた。その日本支社を作るために東京に来た時に出会ったの。出会ってすぐに恋をして、私は妊娠した。お父さんも喜んでくれて結婚することになった。あなたのおばあちゃんには猛反対されたけど、私は彼となら幸せになれるって信じてたから説得した」
ルビーの父はアメリカ人だと、ともみも聞いていた。ルビーの褐色の肌やセクシーな唇もそのお父さん譲りなのだということが、今日明美に会ったことで改めて分かった。
「だけど…ルビーが5歳になった頃、アメリカ出張に行った彼が帰国する予定だった日に帰って来なくて。教えられていた飛行機に乗っていなかったから、心配で彼の携帯に何度も連絡したけれど、全く通じないし。会社に連絡したら、秘書の人は、ちょっと出張が長引いているだけで大丈夫だって言うんだけど。
出張であろうと、一日に一度は必ず連絡をくれる人だったから、どんどん不安になって。何度も彼の携帯に電話をかけたし、メールも送り続けてた。そしたら…帰国予定日から1週間くらい経った頃、知らないアドレスから私のメールに連絡がきたの。英語でね。
送り主は、彼と同じファミリーネームの女性で。彼が美しい白人女性とキスをしながら、ルビーより少し年上の女の子を抱き上げている写真が添付されてた。
長文のメールの内容はね。“この人は私の夫です。ご覧の通り娘もいます”って。“あなたは何度も夫に連絡してきていますが、一体どういうつもりですか?夫は日本でおかしな女につきまとわれて困っていると言っています。これ以上しつこくするならあなたを法的に訴えます”と書かれてたの」
「それは…つまり…」
黙ったままのルビーに代わって、ともみが聞いた。
「おかしな女とは、私のこと。つまり、私と結婚したとき、既にルビーちゃんのお父さんには、アメリカに奥様とお子さんがいた。私とは重婚だったんです」
▶前回:「恋をしなければ、生きられない…」恋愛依存症の母を持つ娘の苦悩とは
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
▶NEXT:1月6日 火曜更新予定

