港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「夫婦仲はよかったのに…」海外出張に行った夫と音信不通に。2週間後、発覚した衝撃の事実とは
「おかしな女とは、私のこと。つまり、私と結婚したとき、既にルビーちゃんのお父さんには、アメリカに奥様とお子さんがいた。私とは重婚だったんです」
そう話す明美のルビーを伺う様子から、ルビーには初めて伝えているのだとわかる。けれど、当の“ルビーちゃん”は驚くほどに無反応だった。
「彼は私と会うことを避けたりはしませんでした。むしろ日本に戻ってきたらすぐ、彼の方から連絡をくれた。そして泣きながら…私に謝りました。彼は日本語が上手な人だったけれど、ごめんなさい、と繰り返すばかりで」
ルビーは無表情のままだ。明美もただ、静かに続けた。
「私と出会って恋に落ちて。出会うのが遅すぎたという言葉の悲しさが初めて理解できたと彼は言いました。私と離れることができず、自分が既婚者であることを告げるべきだと何度も思ったけれど、私を失いたくなくて言い出せなかったそうです。
そして私が妊娠したとき…心の底から喜びがこみ上げて、やっぱり自分たちは運命で結ばれているんだと思ったんだと。だけど、アメリカの家族を捨てることもできない。でも、アメリカと日本を行き来する生活ならば、2つの家族を持つことができるんじゃないか、2つの家族、どちらも精一杯幸せにできれば許されるんじゃないか、って」
— 何一つ許されないと思うけど。
欲深い自分を美化する卑劣な男。その悪質な言い訳にともみは心底げんなりし、驚いた。明美の口調と表情が、まるで美しい日々を懐かしむようなものだったからだ。
「まさか、彼の言い訳を受け入れた…というか許したわけじゃないですよね」
ともみが聞くと、明美は小さく笑った。
「私は21歳で妊娠して結婚しました。確かに私はその時、世間知らずな子どもだったけど、それは許してはいけないことだということくらい、分かっていました。もう一つの家庭にもお子さんがいることを思うと…これ以上彼と暮らすことはできない。だから別れを選びました。
でも…本当に、本当に…大好きだった人で…母から猛反対されて、勘当するって言われても、彼を選んだ結婚だったから。
彼が…ダメだとわかっていても、私との恋を捨てられなかったと言ってくれたこと、本気で愛してくれていたのだということだけは、なんとか信じたかった。そうしないと…」
言葉に詰まった明美の視線が落ちた。ともみはその先を待ったが、明美は何も発さないままで、ともみは疑問をぶつけてみることにした。
「そもそも、今の日本で重婚なんてできるんですか?日本で婚姻届を出したんですよね?なのに明美さんだけじゃなく、役所まで騙すことなんてできるんですか?」
ゆっくりと顔を上げた明美は、「だから私も全く疑っていなかったんです」と、説明を始めた。
◆
アメリカ人と日本人のカップルが東京で結婚するとき、役所に提出するのは、婚姻届、パスポートなどの本人確認書類、それに『婚姻要件具備証明書』や『宣誓供述書』と呼ばれる、その人が独身であることを証明する書類だという。
「私たちが婚姻届を提出したのは港区役所でしたけど、大使館で作った彼の独身を証明する宣誓書とパスポートを出したら、あっさりと受理されました。こんなに簡単なんだねって、2人で驚いたくらいでしたから」
その“独身を証明する書類”は、アメリカ大使館において本人の宣誓をもとに作られるだけで、本国から戸籍のようなものを取り寄せて…などの照らし合わせをされることはほとんどないらしい。さらに当時はまだ、現在のようなデジタルによる国際的な情報連携も、簡単にはできない時代だったことも影響したのかもしれない。
つまり本当はアメリカで結婚している人でも、独身だとウソをついて宣誓してしまえば、日本での結婚はできるということ。こうして2人は夫婦となり、ルビーが生まれ。3ヶ月に1度ほどのペースで夫がアメリカに戻ることを出張なのだと信じたまま、家庭生活が続いていくことになった。
ワインや食材を取り扱う輸入出業で財をなしたルビーの父親は、独占販売の人気商品を多く取り扱い、かなり裕福だったという。偽りの家族は、当時六本木に完成したばかりで話題になっていた超高級レジデンスに住み、何不自由ない暮らしをしていたらしい。
家賃は、家族で住む広さの部屋なら、賃貸で最低月100万円、分譲であれば10億円近いのではないか。それだけの財力を持つ男にとっては、2つの家庭を養っていくことは、全く問題がなかったのだろう。
物理的には…だが。
ともみは、相変わらず黙ったままのルビーをちらりと横目で見て、心で話しかける。
― ルビーって、六本木生まれなんだね。
だから光江さんとも出会うことになったのだろうかと、西麻布の女帝のニヤリ顔を思い浮かべながら、ともみは明美に視線を戻す。
「ルビーのお父さんは…アメリカで結婚をしていることを隠して、日本で婚姻届を出したことを認めたわけですよね」
「…ええ」
「そうなれば、もう犯罪ですよね。…通報というか、訴えたりしたんですか?」
明美は小さく首を横に振った。
「実はその……その頃の記憶が…あまりないんです」
「それは、どういう…」
男の悲劇ぶった言い訳は、一言一句かと思えるほどに覚えているのに、その後からの記憶は抜け落ちているということだろうか。ルビーが微かに驚く気配を感じ、たぶんこれも、初耳だったのだろう、とともみは思った。
「記憶がないって……アンタにとって、めちゃくちゃ都合のいい展開だよね、それ」
皮肉げに口を歪ませたルビーが、突如立ち上がったかと思うと、ワインセラーから白ワインのボトルを取り出し戻ってきた。さっきともみが開けた、今3人が飲んでいるシャブリ。それを空になった自分のグラスに溢れんばかりに注ぐと、ぐい、ぐい、と見せつけるように乱暴に飲んでから、明美をまた睨んだ。
「アンタが忘れたとしても、アタシははっきり覚えてるんだよね。あの男がいなくなってからもアンタはずっと、パパはお仕事なの、もうすぐ帰ってくるからね、ってアタシに言い聞かせてた。六本木から浅草のおばあちゃんの家に引っ越してからもずっと、ね。
なのに、その“パパ”とやらが帰ってくるどころか、今度はアンタまでいなくなった。アタシを置いていく日、アンタなんて言って出て行ったのか覚えてんの?……もしかして、それも都合よく覚えてないって言うわけ?」
明美が目を見開き固まった。言いかけた何かは、声にならなかった。そして絞り出すように、ごめんなさい、と呟いた。一瞬の沈黙。それをルビーの乾いた笑い声が打ち破る。ウケる~と、何度も何度も手を叩く音が、店内にひどく響きわたる。
「ともみさん、聞きました?ごめん、ですって。つまり、な~んにも覚えてないってことでしょ?」
ごめんなさい、ともう一度明美が呟き、それはともみの目にも肯定に見えた。確かルビーの記憶にある、明美の最後の言葉は「すぐに迎えにくるからね」、だったはずだ。6歳のルビーが、信じて待ち続けたその言葉を、明美が全く覚えていないなんて。
ドスンとソファーの背もたれに脱力し、ルビーは、あ~バカみたい、と天井に向かって叫んだ。
「アタシだけだった。ずっと……呪われたみたいに覚えてたのは。ほんっとバカだよね」
くっくっとルビーはしばらく笑い続けると、明美にその満面の笑みを向けた。
「ありがとう。今日でようやく吹っ切れそうだよ。アンタの言葉に意味なんてなかったことを教えてくれてありがとう。6歳のアタシとやっとバイバイできる」
「うん、もう大丈夫!」と、ルビーは勢いをつけて立ち上がった。そして、ともみの静止を振り切ると、クロークから自分の荷物を持って戻ってきた。
「ごめん、ともみさん。もう、ここまでにさせて欲しい。これ以上ここにいたら、アタシこの人に本当に……何しちゃうかわからないからさ」
何しちゃうかわからない。そうすごんだのはほんの一瞬で、ルビーはすぐに表情を和げ、「ともみさんには迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないです。でも今日だけはわがままを言わせてください」と深々と頭を下げた。
その落ち着きに、ともみの方が慌てた。
「なぜ記憶がなくなったのかとか、なぜ…迎えに来れなかったのか、ってことはもう聞かなくていいの?」
ルビーは、晴れやかにほほ笑んだ。
「一番知りたかったことは、もう聞けたので。6歳のルビーは見事解放されました」
「…本当に?」
「ともみさんって、やっぱり真面目だなぁ。そんなところが大好きなんですけど」
すっかり調子を取り戻したように、“いつものルビー”が、ともみにギュウッと抱き着いた。そして小さく深呼吸をしてから、明美に向き直った。
「あなたのことは、ずっと恨んできたし憎んできました。でも、そんなに大キライだったはずなのに……いつか帰ってきてくれるんじゃないか、本当は愛してたって言ってくれるんじゃないかっていう希望も捨てられなかった。でも、もうそれも今日でさっぱり、終わりです」
ソファーに座ったままの明美を、ルビーは見下ろしながら続けた。
「今日ここにあなたを連れてこれてよかった。だから最後に、お礼を言ってお別れしようと思います」
今日初めて、ルビーは明美に微笑みを向けた。そして。
「あなたが私を捨てたから、あなたが最低な母親だったから。アタシはこの街で、大好きな人達に出会えました。それだけは感謝しておきます。
あなたから生まれたことが良かったなんて、今も思えない。でも、人を大切にして、自分も大切にされる気持ちとか、愛し愛されるってことがどんなことなのか――あなたが私に教えてくれなかったことを、私はもう知ってる。
アンタに愛されなかったからって、アタシは愛を怖がったりしない。
命をくれたことはありがとう。でも今日ここで、アタシはあなたを捨てました。もう二度と会うことはありません」
◆
「ルビーちゃんって、かっこいい女の子に育ったんですね。ほれぼれするくらいに」
ルビーが去ったTOUGH COOKIESで、明美は寂しそうに、でもどこか誇らしげに、そう呟いた。ルビーは「その人、適当に店から追い出しちゃってください」と言い残して行ったけれど、ともみはすぐに帰らせる気にはならなかった。
― …明美さんの気がすむまで、付き合おう。
そのつもりで、ともみは改めて店のコンセプトを伝え、「話したいことがあれば、何でも聞きますよ」と、明美のグラスにワインをつぎ足そうとしたが、断られた。
「酔っ払いました?」
ガブガブと飲み干したルビーとは対照的に、明美はまだ一杯目で、しかもグラスの半分ほどワインが残っているのに。今はアルコールを控えていると言っていたし…と、ともみは「お酒が得意ではないのですか?」と聞いた。
「元々は大好きなんですけどね。今はちょっと控えてまして」
「体調とか、どこか気になるんですか?」
健康診断の結果で酒量を少なくする…などは店の客からもよく聞く話だと、ともみは何げなく聞いただけだった。しかし明美の表情が固まった。
「…明美さん?」
「…」
「どうか、しました?」
答えに困った様子で黙り込んでしまった明美を待つつもりで、何か温かいお茶でも出しましょうか、とともみはカウンターに向かった。明美の様子を伺いながら、お湯を沸かし、茶葉を選んでいると、ともみさん、と呼ばれた。
「なんでしょう?」
「お言葉に甘えて私も…話させてもらっていいですか?ルビーちゃんには内緒にしてもらいたいんですが」
「誰にも話すつもりはなかったんですけど」と、迷いを滲ませた明美に、ともみが、「TOUGH COOKIESは、女性の秘密を守るために作られた店ですから、ご安心ください」と微笑む。
「秘密保持契約を結ぶ書類も用意していますので」と、ともみは数枚の書類を差し出した。けれど、明美は首を微かに横にふった。
「契約は無駄なんです。どうせすぐに意味のないものになりますから」
「無駄…とは、どういうことでしょう」
茶葉を急須に入れながら、ともみは聞いた。今夜選んだのは、白茶の最高峰と言われる白毫銀針(はくごうぎんしん)。お湯が注がれる音と共に、ふわっと甘い花蜜の香りが広がっていく。
「ルビーちゃんがさっき…もう二度と会わないと言ってましたけど、会いたくても会えなくなる、というか」
「会えなくなるっていうのは…」
「私、病気なんです。だからお酒をお医者さんに止められてて」
「……深刻…なものなんでしょうか」
イヤな予感がした。そしてそれは当たってしまった。
「余命1年くらい、だそうです。その数字は希望的観測っていうか、それより短くなる可能性もあるみたいですけどね」
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