◆これまでのあらすじ
別れた元彼・豪のことが忘れられない市子。豪に想いを寄せるお嬢様・栞。会社の先輩・六郎に長年片想いをしていた双葉。そして、その六郎と授かり婚をした早紀。
離れかけていた心がクリスマスに再び近づいた早紀夫婦だが…?
▶前回:「LINEブロックされてる?」復縁したい元彼に勇気を出してメッセージを送ったら、未読スルーされ…
Vol.10 <早紀:表参道の創作ダイニング>
キャラメリゼしたナッツを、クッキーの生地に練り込んでいく。
丸く型で抜いてオーブンに入れ、焼き上がるまで20分。私は少しの休憩を取るためにダイニングチェアへと腰掛け、チョコチップクッキーを一口かじった。
「うん。美味しくできてる…とは思うんだけどなぁ」
チョコチップクッキー。ピーナツバタークッキー。抹茶のクッキーにストロベリークッキー。テーブルの上には所狭しとクッキーが並んでいて、その全てが私の手作りだ。
発酵バターをふんだんに使ったクッキーは私が幼いころ祖母が作ってくれていたオリジナルのレシピで、自分で言うのもなんだけれど、どれも一流のパティスリーに負けないような味だと思う。
さきほどオーブンに入れたナッツのクッキーが焼き上がる。そのクッキーをまた一枚味見しながら、いつものようにスマホで写真を撮影する。
「えーと…。『今日も試作品を作ってい、ま、す』…と」
Threadsにクッキーの写真をアップしながら時刻をチェックすると、いつのまにか幼稚園のお迎えの時間になっていた。
「わっ、もうこんな時間!」
クッキーを網の上に出し、慌ててコートを羽織って家を飛び出す。
年が明け菜奈の幼稚園が始まって10日ほど経つが、このところの私は、幼稚園の間はこうしてひたすら慌ただしく、家でさまざまな味のクッキーを作り続けているのだった。
大量に作り続けているクッキーは、その全てが試作品だ。
六郎さんがチョコレートケーキを買って来てくれたクリスマスの夜。久しぶりにゆっくりと話す時間を持った私は、思っていることを全て、しっかりと六郎さんに伝えることにした。
「私、どうしても働きたい。菜奈の幼稚園は預かり時間も短いし、これから小学校受験が控えてるのもわかってる。
それでも私、できる範囲でいいから何かして社会と繋がっていたいの」
そう真剣に伝えると、六郎さんは意外にも本当に驚いたような表情を浮かべて言ったのだ。
「そういうことだったら、もちろん応援するよ」と。
これまでにも六郎さんに「働きたい」と伝えたことは、何度かあったと思う。
だけど、どこか勝手に遠慮していたせいなのか、言葉足らずだったのかもしれない。
六郎さんは私が働きたいと思う理由を「生活費がもっと欲しいから」だと思いこんでいて、それでひたすら、家庭に入れるお金を増やすことに注力していたとのことだった。
「今の生活は、俺の給料だけでも回していけてるんだからさ。どうせなら早紀はこの際、ずっとやってみたかったことにチャレンジしてみたら」
そう背中を押されて、私の心の中にまっさきに思い浮かんだ仕事。それは、六郎さんや双葉と同じ編集者に戻ることではなく───パティシエだったのだ。
カヌレが好き。チョコレートが好き。そして私の得意料理は、我が家秘伝のクッキー。
そうして六郎さんと出した答えは、クッキーのネットショップの開設。年末から色々とプランを練り始め、今は3月からの販売に向けて具体的な準備を進めている。
食品衛生責任者の資格は取得した。菓子製造業許可を取得済みのレンタルキッチンの目星もつけた。
個人でネット販売を始めるのは、そういったプラットフォームを使えば思ったよりも簡単にできることがわかったし、掲載する商品写真や文章は現役編集者である六郎さんが監修してくれることになっている。
残る大仕事は、魅力的な商品を作ることだけなのだ。
クッキーの味にはもちろん自信があるけれど、なんのブランド力もない個人が実店舗も持たずにネットで販売するクッキーとなれば、ただ美味しいだけでは誰にも見向きされないことなんて分かりきっている。
― どうせやるなら、本気でやりたい。たくさんの人に「美味しい」って喜んでもらいたい。
ついに仕事ができる。幼い頃ずっと憧れていた、パティシエになるという夢に近づける。
久しぶりに感じる高揚感に駆られて、私の頭の中はもうクッキー一色なのだ。
幼稚園からバレエのお稽古へと菜奈を送迎し、夕食を食べさせてお風呂に入れる。寝かしつけの暗い子ども部屋の中でも菜奈の寝息が聞こえ始めると、すぐにスマホを取り出して、アイデア探しに没頭した。
ネットでアイデア作りに役立てているのは、専らSNSのThreadsだ。
一時期は六郎さんの愚痴を吐き出すだけの場所になってしまっていたThreadsだけど、いまは毎日クッキーの試作品を投稿しては、その反応を聞かせてもらっている。
『キャラメリゼしたナッツのクッキー。甘く香ばしい香りは、コーヒーや紅茶との相性ピッタリです』
お迎え前に投稿したナッツのクッキーにも、すでにたくさんのコメントがついている。
『美味しそう!』
『販売したら絶対買います♫』
嬉しくなるようなコメントがほとんどを占めているが、その中で私の目を引いたのは、“ハチ公”さんのコメントだ。
『すごくおいしそうですね。食べてみたいですけど、でも、私の好きな人はビールが好きで甘いもの好きじゃないですから、一緒に食べれないの悲しいですね:(』
― たしかに。ちょっと甘みが強すぎる…?
顔も名前も、年齢も性別すら分からないハチ公さんとは、いつのまにか相互フォローする仲になっている。
六郎さんと険悪になっていたあの頃。
『ダンナさんと、おいしいものを食べてみるといいと思いますね。きっと、幸せな気持ちになります』
そう書き込んでくれたハチ公さんは、そのどこか不思議な言葉遣いのコメントから、なぜだかインスピレーションをもらえることが多いのだ。
― ハチ公さんにも、好きな人と一緒に楽しんでほしいな。クッキーじゃなくて、ベーグルとか何か別の商品も作ってみる?いや、迷走してるかな。
菜奈がすっかり眠りについたことを確認した私は、子ども部屋を抜け出しまたしてもキッチンに向かう。
幼稚園に行っている午前中の間はもちろん、菜奈が寝てしまったあとの夜遅くの試作も、ここのところすっかり日課になっていた。
「ただいま〜。…って、早紀、大丈夫…?」
22時過ぎに帰宅した六郎さんが、怪訝な顔を浮かべたのも無理はない。
よれた化粧。シワのついた部屋着。そんなボロボロの格好の妻が暗いリビングの奥のキッチンで、深夜に黙々とベーグルを茹でているのだ。
「あ、おかえりなさい」
「ごめん、また寝かしつけ間に合わなくて。試作品?」
「うん。どうしても、ただのクッキーじゃ決め手にかける気がして」
「…夕食はちゃんと食べた?」
「あ〜…。菜奈にはちゃんと食べさせたけど、考えてみたら私はクッキーだけだったかも」
「ええ…」
「でも、3月には販売するってネットで発表しちゃったし。休んでられないよ」
「…」
しばらく困ったような顔で黙っていた六郎さんだったけれど、ポリポリと頭をかいたかと思うと、決意の滲む声で私に話しかける。
「ねえ、早紀。明日は俺が菜奈を幼稚園に連れていくからさ、今夜だけ俺のワガママに付き合ってよ───」
◆
そこからは、怒涛の展開だった。
六郎さんはおもむろに誰かに電話をしたかと思うと、出しっぱなしだったお菓子作りの道具を洗い始める。恐縮する私に強い口調で、身支度を整えるように指示を出す。
着替えたころにやって来たのはなんと、大学院生をしている私の妹だ。
「六郎さんに呼ばれて来たよん!寝てる菜奈ちゃんと留守番してればいいんでしょ?余裕余裕〜」
そうしてあれよあれよとふたりでタクシーに乗り込み、私は今、なぜか真夜中の表参道にいる。
Aoビルの5階。『TWO ROOMS』と書いてある看板を奥へ進むと、大きい窓の向こうには東京の夜景を映した水面がキラキラと輝く。
年が明けてからずっと狭いキッチンにこもりきりになっていた私からみると、まるで海外リゾートのような異世界だ。深夜3時まで営業しているという店内はどこをとっても洗練されていて、“東京の最先端”を感じさせる。
そして、そんな店内で見ると、六郎さんもまるで別人みたいだ。
「適当に頼んじゃうからね」
そう言って手慣れた様子で料理をオーダーする六郎さんは、いつもへとへとで夜遅くに帰宅するオジサンと同一人物とは思えない。
六郎さんの元に届いた飲み物がいつもと同じウイスキーであることに少しだけホッとしながら、私は密かに胸のドキドキを感じていた。
驚きは、それだけではなかった。
鮟肝パテ×紫蘇×サワードゥクリスプ。馬刺しのカルパッチョ 柿×ルッコラ×ペコリーノチーズ。紅はるか×焦がしたまり醤油バター…。
イノベーティブ料理を謳っているだけあり、運ばれてくるお料理はどれも美味しいだけでなく、新しい。
「ん!この組み合わせ、こんなに美味しいんだ。意外…!」
ひとくち口に運ぶたびに、私の瞳がテラスの水面と同じようにキラキラ輝くのが、自分でも分かる。そして、そんな私を眺めて六郎さんが喜んでいることも、不思議と伝わってくる。
「いやぁ。今日はデスクでコンビニ飯だったから、夜食付き合ってもらって助かったわ」
「…私がアイデアに煮詰まってたのを見かねて、連れてきてくれたんでしょ」
「まあ、それもあるかな?でも普通に、たまにはこうして夫婦でデートしたいとは思ってたから。菜奈が生まれる前はよくこうして、深夜に甘いもの食べに出歩いたよな」
そう言いながら六郎さんは、なんでもないことのようにウイスキーのグラスを傾ける。
だけど、3年も夫婦をやっているのだ。隠せるわけがない。
子どもを置いて出られる、深夜に営業してるお店。私のアイデアにつながりそうな、新しさを感じられるお店。
私のためにそういうお店を探して連れてきてくれた。
六郎さんが素直になってくれないのだから、私だって素直になってなんてあげない。
「ねえ、ここのお料理を食べててアイデアが湧いてきたんだけどさ。ビールに合うクッキーっていうのはどうかな?
黒七味とか、海苔とか…。ジャーキーとか使ってみるのもよくない?」
新しい味覚に触れて思いついたアイデアを、次々に六郎さんに相談する。
いつのまにか焦りに変わってしまっていたワクワクを、六郎さんに惜しみなく共有することが、今夜この場所での私なりの「ありがとう」の代わりだ。
クッキーだからって、甘くなくたっていい。
子どもを人に預けて、デートに来たっていい。
深夜の東京の空気に、いつのまにか凝り固まっていた私の固定観念が解けていく。
相変わらずウイスキーのグラスを手放さない六郎さんの肩に、ゆっくりともたれかかる。
菜奈が間にいないことが少しだけ気恥ずかしかったけれど、今は真っ昼間じゃない。店内にはもっと大胆なカップルだっているのだから、今夜くらいかまわないだろう。
大きな肩の温かさを感じながら、こっそりと頭の中で考える。
― ビールに合うクッキーの他にも、ウイスキーに合うクッキーも考えてみようかな…。
▶前回:「LINEブロックされてる?」復縁したい元彼に勇気を出してメッセージを送ったら、未読スルーされ…
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
▶Next:1月26日 月曜更新予定
仕事へのチャレンジ、夫婦関係の修復に成功した早紀。でもその裏で実は、六郎は双葉と…。

