元パタンナー・デザイナーから食の世界へ。異色のキャリアが紡いだ‟美味しさのデザイン”

Q.もともとはアパレルブランドでのパタンナー・デザイナーを経て、料理の道へ進み、途中修行の一環で始めたパティシエの仕事に魅了され、パティシエの道へ。もともと幼少期のころから食への興味があったのでしょうか?
高良シェフ「食への興味は幼少期から持っていました。幼稚園の年中で、だいたい5~6歳ぐらいの頃でしょうか。当時住んでいたのが大阪だったことからか、母親がお昼は食堂・夜は串カツ屋を営んでいました。それもあって高校は調理科を進むのは自然なことでした。高校生の時に、イタリアンレストランで3年間アルバイトをしていました。ボロネーゼに衝撃を受けたのもこのころでしたし、凄く刺激の多い3年間でしたね。」
Q.そこからなぜファッションの世界へ?
高良シェフ「途中から無性に服が作りたくなったんです。僕が高校生当時、いわゆる‟DCブランドブーム”が終わっていわゆるモード系が全盛期を迎えたタイミング。そんな中、流行とは一線を画していたコム・デ・ギャルソンに魅了されて、高校生ながら、よく着ていました。そこから服飾の専門学校に行き、卒業し東京でファッションブランド『THEATRE PRODUCTS(シアタープロダクツ)』にパタンナーとして入社しました。
小さな会社だったので、生産管理からアシスタントのデザイナーまでやっていましたが、いつからか上質な素材の服を長く着る方が好きになっていて、ファッションの世界の凄く‟流行り廃り”に左右される点がいまいちしっくりこなくなってきて。この世界でモノづくりをするのは違うなと感じ、料理の世界に戻ってみようと考えていたタイミングで、有難いご縁が。高校生の時に働いていたお店の先輩が東京で独立するという話があり、お誘いいただき料理の世界に戻ることになりました。

その後先輩に『若いうちから菓子屋やデザートの経験を積んだほうがいい』とアドバイスをいただき、料理の道からレストランと結婚式場のパティシエとして働くことになりました。もともとお菓子は大好きだったこともあり、この結婚式場の職場を2~3年やって、働いているうちにパティシエに意外と向いているなと思うように。
お菓子と料理の世界で決定的に違うのが、分量をきっちりはかって、時間も細かく設定して大切に作る点。もともとパタンナーをやっていた自分の仕事と、その仕事の緻密さがマッチしていて、凄く性に合っていると感じました。」。
Q.お菓子作りの礎はどのようにして学ばれたのでしょうか?
高良シェフ「そのレストランと結婚式場で働いているときは、実は7割ほど独学でした。好きにやらせてもらっていて。仕事が終わった後は夜遅くまでずっと試作をしていましたね。僕のバイブルは『イデミ スギノ』の杉野さんの『素材より素材らしく』や『ピエール・エルメのお菓子の世界』など。杉野さんのお菓子はよく食べていましたし、ピエール・エルメもまだ店舗が少ない時代だったので、ミーハーな気持ちを持ちながら勉強させていただいていました。」
長野で「torantoroa33(トラントロア)」が誕生したワケ

Q.現在お店が長野県長野市。ご出身の京都ではなく、なぜ長野だったのでしょうか? また数多くの信州の農家さんたちとのいい関係性を感じます。長野の魅力も教えてください。
高良シェフ「出身は京都ですが、関西での独立は全く考えていませんでした。長野での仕事が長かったこともあるけれど、転勤で長野、その後1回神戸で。そこから長野で10年間働いていました。知人もそうですし、業者さんもですが、長野の方が長くなり…。京都は、京都の文化があって、そこでお店をやるイメージがわかなかったんです。
またお店を出そうと思ったころはちょうどコロナの前で、当初予定の東京オリンピックとかぶっていたことから都内の家賃が爆上がりしていたので都内での開業は諦めることにしました。オリンピックバブルで物件も少なかった時期なので、物件探しに大変な思いをするなら……と、長野で開業をすることを決断。長野の物件では、有難いご縁もあって、今このtorantoroa33がある場所にあったお肉屋さんの息子さんと知り合い、この場所を紹介してもらいました。かれこれ20年ぐらい、どこもこの跡地にお店が入っていないと聞き、広さもいいし、駅から少し離れていてのんびりしていていいなと思い、ここを選ぶことにしました。

ここ長野の魅力は、圧倒的に″素材が近くにある”ということ。農家さんも多く、農家さんから声をかけてくださる方もいるし、前の職場が長野で有名なお店だったこともあり、そのご縁で人脈がどんどん広がっていきました。
何よりも食材の鮮度が凄く違う。地元ですぐ手に入る食材の美味しさは、筆舌にしがたいものがあります。自分で杏子をとって、すぐ使える。完熟がよければその時にすぐ取れますし、生産者とすぐ話せるほどの”近い距離感”でコミュニケーションがしっかりと取れるのもいい点ですね。」
Q.高良シェフの作るお菓子やパンは、「素材」が切っても話せないテーマだと思います。身体に優しい、その安心安全への傾倒のきっかけがあれば教えてください。
高良シェフ「最初は食に携わっているので、自分の味覚をちゃんとしなきゃと思ったことがきっかけです。そのころから化学調味料が安全だといっても、舌にとって安全じゃないなと思っていました。化学調味料は、旨味を増幅させるもので、味覚を狂わせてしまう。
ある時に歯磨き粉を、舌に香料や人工甘味料が残らないものに変えたことがありました。そこから味の感じ方がすごく変わっていったんです。自分の味覚の感覚を研ぎ澄ますことの大切さを感じましたね。美味しさの感じ方が全然違います。
あとは、自分が農薬アレルギーになってしまい、野菜は大丈夫なのですが、果樹の消毒の時期は結構辛くて…。そんな事もあり、農薬不使用の果物をなるべく使っています。自分が作るものって自分でも食べるものですよね。雇われのときは自分がしたいようにする限界があったけれど、今ここでは100%自分で好きなようにやれる。買いに来て食べてくださった方が‟甘すぎない”といって喜んでいただけることが、凄く嬉しいですね。これからも食材本来が持つ美味しさを伝えていきたいと思っていますし‟素材”が僕たちのひとつのアイデンティティだと思っています。」

Q.様々な生産者さんとの出会い、コミュニケーションを大切にしていると感じました。印象に残っている農家さんやお菓子作りに影響を与えたエピソードがあれば、教えてください。
高良シェフ「僕といえば多分静岡県・熱海のダモンデファームさん。最初の出会いは、産直の通信販売サービスの『ポケットマルシェ』で注文したところからでした。そこから連絡を取り合い、実際に畑を見に行かせてもらい、本人と話すようになると、この錦織さんという方はいい意味でとんでもない‟シトラスバカ”だなと圧倒されました。知識量が凄く、ああいう理論を語れる農家さんは滅多にいません。僕は柑橘を使ったお菓子を、自分の感覚でお菓子を作っていたけれど、錦織さんが理論でかぶせて語ってくれて。お菓子作りにおいて、凄く影響を受けた人の一人です。その錦織さんの理論を聞いて、今年になってあえて彼の理論に基づいてお菓子を作ったりしています。それが今とってもやりがいがあって楽しいですね。」

Q.サロンデュショコラから始まり、昨年のウフフェスでも大きな話題になり、どんどん存在が大きくなっていると思います。昨年はワールドチョコレートマスターズの国内でのコンペティションも参加されていました。今後の目標を教えてください。
高良シェフ「パティシエをはじめてから、コンクールというものには全く興味なかったんです。今思えば、それは天邪鬼で痛いやつなのかもしれませんが、‟美味しいものを作ったほうがいいやん派”だった。
でもふとある時に、そういうものから逃げているように見えるなと思ってしまったことがあって。マスターズだと、興味のあったチョコレートだし、一人でできるものだし、やってみようかなと思って挑戦しました。世界的にも有名な大会ですし、最初は書類審査で落ちてしまいました。もちろん日本代表になりたいという気持ちは持っていますが‟自分の若いころの落とし前をつけたい”というか。そういう想いもあります。
2024年度のマスターズの予選では、これで最後の挑戦にしようと思っていたけれど、お店のリニューアルが工事の影響で延びたり、都内での催事もあり、全くもって大会の準備ができておらず、申し訳ないし、不完全燃焼でした。もちろん全部自分が悪いんですが、それが凄く悔しかった。次のマスターズが、いつになるかわからないけれど、もう1回勝つにしても、負けるにしても、やりきって終わりたい。
話は変わりますが、デセール専門店もやりたいんです。今はたくさんのお店があるのですが、ずっと前からやりたいと思っていて。その夢もいつか叶えたいですね。」