◆視覚から嗅覚へ、逃げ場のない状況
決定的だったのは、その数分後でした。「匂いです」
最初は微かだったものの、次第にチーズが腐ったような匂いと、ドブを思わせる湿った臭気が混じり合い、確実に周囲に広がっていったそうです。
「マスクをしていても分かるレベルでした」
視覚的な違和感だけであれば、まだ耐えられたかもしれません。しかし嗅覚への刺激には逃げ場がありません。
「呼吸するたびに来るんですよ。次第に気分が悪くなり、頭もぼんやりしてきました」
それでも彼は、しばらく席を立たずに耐えていたそうです。理由は単純でした。富士山を見るためにせっかく予約したからです。
すでに富士山は遠ざかっていましたが、品川駅で購入した幕の内弁当もあります。
「ここで移動したら、全部無駄になる気がして」
しかし限界は突然訪れました。宮内さんは静かに荷物をまとめ、何も言わず席を立ちました。向かった先は自由席です。幸いにも空席はあったとのことでした。
「指定席、あきらめました」
その言葉は淡々としていましたが、そこには確かな悔しさがにじんでいました。結局、幕の内弁当の袋を開けることはなかったそうです。
◆一寸先は闇を学んだ今回の旅路
自由席に座り直した後もしばらくは、食欲が戻らなかったといいます。「楽しいはずの移動時間が、完全に別物になりました」
それでも、宮内さんは強い怒りを感じていたわけではありませんでした。
「誰が悪い、という話でもないですからね」
そう前置きしたうえで、彼はぽつりとこう漏らしました。
「こんなハズレもあるんですね」

ただ、取材の終盤、彼は少し考え込むような表情を見せてから、こう語りました。
「次も窓側は取ると思います。でも……」
その続きを、彼は口にしませんでした。富士山の景色と、あの強烈な体験。その両方が、次の旅にも同時についてくる可能性を、彼自身が一番理解しているように見えました。
<TEXT/八木正規>
【八木正規】
愛犬と暮らすアラサー派遣社員兼業ライターです。趣味は絵を描くことと、愛犬と行く温泉旅行。将来の夢はペットホテル経営

