◆これまでのあらすじ
別れた元彼・豪のことが忘れられない市子。豪に想いを寄せるお嬢様・栞。授かり婚をした早紀。
そして、早紀の夫・向井に長年想いを寄せ続けている双葉。
アプリで出会った台湾人・ハリーに韓国に行ってしまうことを告げられた双葉は、その夜向井から電話をもらい…?
▶前回:「夫とデートなんてずっとしてない…」結婚3年、冷えきった夫婦関係が改善したきっかけとは
Vol.11 <双葉:広尾の韓国料理>
去年はトルコ。
一昨年はメキシコ。
たしか3年前は…アラビアだったっけ。
私が働いているカルチャー・ファッション誌の新年の部会は毎年、どこか各国料理の美味しいお店に出向くのが恒例になっている。
今年の新年会の舞台になっているのは、よりによって韓国料理のお店なのだった。
― 韓国…。ハリーは、元気にしてるかな。
テーブルに準備されたサムギョプサル用の鉄板を見つめながら、私は、すでに3杯目になるビールのグラスを飲み干す。
『つぎは、韓国に行くことになりました。これから会えないだけど…。双葉さん、大好きでした』
拜拜(バイバイ)、というハリーの最後の声。
その声が、ひとりで深夜の天ぷらを食べたあの夜からずっと耳にこびりついて離れない。
店内には、流行のK-POPが大音量で流れている。
その華やかで激しい音が常に鼓膜を刺激しつづけてくれるのが、今はただただありがたかった。
西麻布のデザイナーズビルの地下にあるここ『ハンプルThe wave』は、まるで梨泰院あたりにある本場の最先端レストランみたいだ。
K-POPで満たされる吹き抜けの空間。コンクリートのスタイリッシュな内装にネオンの装飾。
最新の韓国ドラマの舞台になりそうな雰囲気のなか新感覚の韓国料理が楽しめるこの店は、どうやら向井さんのチョイスらしい。
― あいかわらず、向井さんってお店のセンスいいんだよなぁ。
と、4杯目のビールを注文するついでに、隣のテーブルに座っている向井さんをこっそり盗み見る。
あの夜。ハリーが私に「拜拜(バイバイ)」と言ったあの夜。
まさか向井さんから電話がかかって来るなんて思わなかった。
それにそのあと、あんなふうに会うことになるなんて…。
「はい、ビールお待たせいたしまたぁ」
4杯目のビールはあっという間に提供されて、まだメインの鍋も始まっていないというのに、私はじゃがいもとチーズのチヂミ・カムジャジョンをつまみに来たばかりのビールで喉を潤す。
同僚と会話しながら、すでにほのかに酔いが回り始めた頭で思い出すのは、3週間前のクリスマス前。向井さんから電話がかかってきた夜に起きたことなのだった。
◆
ありありと思い出すのは、3週間前の夜のことだ。
「なにこの店〜!双葉。こんないいところ知ってるなら、早く教えろよな」
「はぁ…なんなんですか。ここ、24時閉店ですよ。もう飲み物もラストオーダーなんで、飲むなら早いところ頼んじゃってください」
「んじゃ、俺も同じ白ワイン」
渋谷の『テンキ』で深夜の天ぷらを堪能していた時、向井さんからかかって来た電話。その電話に恐る恐る出たところ、
「今渋谷なの?じゃちょっとそこ顔出すわ、店送って」
向井さんはそう言うなり、5分も経たずに本当にこの場にやって来たのだ。
「カンパーイ」
呑気にグラスを合わせてくる向井さんを受け流しながら、私は内心、どぎまぎと慌てふためいていた。
いつか向井さんと一緒に来たいと思っていた店に、思いがけずふたりでいる。
だけどもちろん、手放しで喜ぶことなんてできない。
私の心は、ずっと側にいてくれていたハリーを失ったばかりでグチャグチャだし、なによりも、向井さんは早紀と結婚している。
「で、なんなんですか?こんな夜中に電話くださったり、わざわざここまで来たり…。何か折り入ってのお話があるんですよね?」
どれだけ待っても心は落ち着きそうにない私は、とっとと本題を終わらせてしまおうとこちらから向井さんに問いかける。
だけど、その質問に対して向井さんが返してきた言葉に、私の心はさらにざわめいてしまうのだった。
「いや、実はさ…」
「実は?」
「最近、早紀とうまくいってないんだよね」
「…え…?」
「早紀から聞いてない?双葉、早紀と仲良いよね」
「はい、仲は良いですけど…。別にそんな、向井さんとの仲なんて…」
まさか、早紀と向井さんが?そうだとしても、なんでそれを私に?
もしかして、私がずっと向井さんのことを好きだったってこと、わかったうえで…?
ただでさえハリーのことで混乱していたというのに。
私は1人でも平気。恋なんていらない、自立したカッコイイ女。それが私。
ついさっきまでそんなふうに納得しかけていたというのに。
そこに向井さんから面と向かってこんなことを打ち明けられてしまっては、もはやどうしたらいいのかわからない。
混乱と動揺とで、私はグラスに口をつけて無言に徹した。
けれど、冷たい白を口に含みながら、しっかりと感じ取ったのだ。
混乱を極める頭とは裏腹に、心は冷たく沈み込む。
― これって、もし私のことを誘っているとしたら───
向井さんって、最低。
と。
私にとって向井さんは、好きだった人である前に、憧れの人だ。
いつでも全力で仕事をこなす人。
どんなピンチの時でも周囲を明るく照らす人。
尊敬できて、仕事にも人にも誠実で、ときどき昭和感のあるコンプラ違反気味な男臭さもあるけれど、だけどそれは“漢気”みたいなものにも言い換えられて…。
とにかく私にとっての向井さんは、そういう人なのだ。
間違っても、妻の友人と関係をもったりしない。そんな罪を犯す人ではないはずだった。
胸の奥のほうで頭をもたげた小さな失望は、すぐに大きな嫌悪感となって頭の方へと侵食を始める。混乱していた脳みそは冷たく冷えていき、私はいつのまにかすっかり冷静さを取り戻していた。
「向井さん、目覚ましてください」
そう冷たく言い放とうとした、その時。
向井さんが、覚悟を決めたような、それでいて恥ずかしそうな眼差しで、私に向き直る。
そして、おずおずと言ったのだ。
「俺、本当に早紀にひどいことしちゃって。
クリスマスには絶対に、絶対に仲直りしたいんだけど…あいつの好きなケーキとか、喜ぶこととか、双葉からアドバイスもらえないかな!?」
◆
― ああ、あの時。ホント早とちりでキレちゃわなくてよかった。
ビールを飲み進めながら、私はあの夜を思い出して苦笑いする。カムジャジョンはもうなくなってしまったから、今のつまみはもっぱら白菜のキムチだ。
結局あのあと向井さんは、早紀の大好きな『ブボ・バルセロナ』のチョコレートケーキの入手に成功したらしい。
このまえ早紀から「クッキーのネットショップを開こうと思う」という興奮気味の連絡が入ったところをみると、きっと、ゆっくりと夫婦で話をする時間も取れたのだろう。
と、その時だった。先ほどチラと目線をやったことに気がついたのかもしれない。
向こうの席についていた向井さんが、マッコリのボトルを手にしたままおもむろにこちらに近づいてきたかと思うと、どっかりと私の隣の席に腰を下ろした。
「おう、双葉。この前はありがとな!」
「無事仲直りできたみたいで、よかったですね。最近はどうですか?」
「おかげさまで、夜中にデート行くまでに復活!ほんと、双葉様にアドバイスいただいて助かりました。俺がどれだけ早紀に甘えてたのかって」
「気づけてなによりです」
「いや、分かったんだよ。子どもが小さいからって諦めてたけど、子ども寝かしつけちゃった後なら、義理の妹ちゃんに頼んでちょっとデート行けるの」
「それはそれは」
「だからさ、最近は夜中もやってる美味しい店探し中ってワケ。この店も、朝の3時までやってるんだって。いいだろ?」
「やっぱり、そうだと思ったんですよ。出版業界は夜深いから〜とか言ってましたけど、早紀のためだろうなーって」
「まあ、家族一番でやらせていただいてますんで」
そう言ってマッコリを飲んでいる向井さんは、やっぱりすごくかっこよくて…私の胸はつい、ツンとした痛みを覚えてしまう。
だけど、今の私にはもうハッキリと分かっていた。
この痛みには、意味がないということが。
私が好きだったのは、早紀に夢中な向井さんだ。
新入社員として入ってきた早紀に一目惚れをして、仕事で支え、不器用ながらもだんだんと早紀と心を通わせ始めていた向井さんだったのだ。
そんな向井さんを遠くから見て、私は恋をした。
だから、長い時間が経ってしまったけれど…私はもう、本当に平気だ。
鍋が運ばれてくる。
オマールエビや蛤、ムール貝など新鮮な魚介がふんだんに使われている鍋は、「韓国鍋で作るブイヤベース」というメニュー名の通り、深くて辛い味がした。
「めちゃくちゃ美味しい」
そう言って夢中で味わう向井さんは、きっと早紀を思い浮かべているのだろう。
今度、子どもを寝かしてから2人で来ようか、とか、早紀は気に入るかな、とか。それはとっても、幸せなことだと思った。
一方の私は───。
こんなに美味しい韓国料理を食べても、幸せなことを考えられない。
ハリーは、きっとここには来ない。韓国に行ってしまう人を、韓国料理に誘うだなんて、とんでもなくマヌケなことだから。
― いけない。また、ハリーのことなんて考えちゃった。
拜拜(バイバイ)。
その苦い響きにまたしても沈んでしまいそうになった私は、今夜6杯目になるビールを注文しよう手をあげる。
でも…あげようとしたその手を、向井さんがそっと押し留めた。
「飲み過ぎ」
「いや、これくらい普通にいつも飲みますし」
「祝杯ならいいけどね。可愛い後輩のヤケ酒は、止めるでしょ」
そう言って向井さんは、いつのまにか頼んでいたウーロン茶を私に差し出すのだった。
「…なんで、ヤケ酒だって思うんですか」
「そりゃ、何年双葉の教育してると思ってるの」
「何にも気づかなかったくせに…」
「え?」
相変わらずこの人は、仕事のことならわかるけれど、女のことは全く分かっていない。
大きなため息が漏れそうになるのを我慢して、私はヤケ酒ならぬヤケウーロン茶を喉に流し込む。
「なんでもないです。どうせもう、“今回も”間に合わないんですもん」
「今回もの意味がわからないけど、何が間に合わないのよ」
「うるさいなぁ〜。ちょっと気になる人がいたけど、韓国に行っちゃったんです!」
「そうなの?いつ?」
「いつ?って…。え…いつ、なんだろう」
『つぎは、韓国に行くことになりました。これから会えないだけど…。双葉さん、大好きでした』
ハリーが私にそう言ったのは、たかだか3週間前のことだ。
もしかして。もしかしたら、ハリーはまだ日本から出発していない可能性もあるのだろうか?
「いつ、行ったんでしょう?」
「知らないよ。聞いてみれば?もう行っちゃった?って」
「そんな」
「それか、家行ってみたら?今夜中に決着つくんじゃない」
「家に?」
家は、知っていた。
一回だけ、ハリーのルームメイトのインド人を紹介するということで、お部屋で本場のインド料理をご馳走になったことがあるのだ。
「渋谷の彼の家に?」
「いや、知らないけど。渋谷なら西麻布からすぐじゃん。双葉には幸せになってほしいし、俺タクシー奢るよ?ホラ」
そう言って向井さんは、目の前でタクシーアプリを立ち上げ始めるのだった。
西麻布から渋谷までは、タクシーでほんの10分程度だ。
23時の今なら車も混んでいないから、もっと早く着く可能性だってある。
本当に?今から?そもそもハリーはまだ日本に?もしいなかったら?もしいたら?
頭の中がぐるぐると回転して、あの天ぷらの夜以上の混乱が私を襲う。
だけどやっぱり今夜も、頭よりも先に心の方が私に教えるのだ。
もしも渋谷の部屋に行って、そこにまだハリーがいたら───。
「私もハリーが大好き」って、ちゃんと伝えられるよ…って。
▶前回:「夫とデートなんてずっとしてない…」結婚3年、冷えきった夫婦関係が改善したきっかけとは
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
▶Next:2月2日 月曜更新予定
向井への想いに決着がつき、ハリーへ気持ちを伝える気になった双葉。一方、気持ちをストレートに伝え続けている栞は…

