◆高田馬場に存在した戦後の「スラム」
不法占拠の地区や建物が出現しやすいのは、社会や地域が大きく混乱し、行政も満足に機能していない時である。日本において、そのタイミングは「終戦」であった。1945年(昭和20年)まで続いた太平洋戦争により、東京都は空襲で多くの市街と住宅が消失した。さらに戦地からの引揚者や疎開先からの帰還者が大量流入し、都内では住宅難が発生。戦災跡・川沿い・ガード下など至るところの空き地に仮小屋が組まれた、バラック横丁も、元はこの時期に建てられたものではないかと思われる。
これらは日本社会が立ち直って安定してきた頃まで残り続け、やがて劣悪な住環境が不法占拠を多数含む「不良環境地区」……いわゆる「スラム」として社会問題になった。これを受けて東京都民生局は環境改善・生活改善のため調査を実施。1959年(昭和34年)に『東京都地区環境調査 ―都内不良環境地区の現況―』という報告書をまとめた(※以下『東京都地区環境調査』とする)
同資料によると、都内に存在したスラムは実に273個所。そのうちの一つが、高田馬場の駅前にあったのだ。……と聞くと「それがバラック横丁か!」と早合点しそうだが、実はそうではない。

また、同資料によると、この地域は「公共的立場からみた居住用地としての可否」の項目が「適正≒不法占拠ではない」という判定だ。つまり件の元・不法占拠地帯とは場所が違うし、そもそも不法占拠でもない。それでも、ここの変遷はバラック横丁にも大きな影響を及ぼしていたと、筆者は推察する。
◆スラム解体の中で「見逃された(?)」バラック横丁
新宿区高田馬場1丁目のうち大半の区域は、かつては丁目のない諏訪町(すわちょう)という名前であった。当時の諏訪町は木造モルタル造りの小さな建物が狭い区域に密集し、学生向けの貸間・下宿・アパートなどが立ち並んでいたという。『東京都地区環境調査』によると、その数は合計41軒。これらは同資料で「仮小屋住宅集団」と扱われ、「戦後応急的に建てられたバラツク(※バラック)建築であるが(※終戦から)10年後の今日個々の経済状態により改善して居住している世帯と腐朽破損のまま種々の危険性を伴なつた世帯がある」と記述されている。建物が「やや密」、道路舗装・排水・街路照明の利便・上水道やガスの利便が「やや悪い」という判定になっている。
家庭内汚水の排水設備がない建物も41軒中15軒に及び、水準以下の住居比率は実に80%以上。現代の価値観からすると、かなり劣悪な生活環境であったことが伺える。
『東京都地区環境調査』にはスラムの写真も載っており、半ば廃墟のような住居写真の下に「ゆがみ始めたニ階建長屋」「通路より低い(≒汚水などが溜まりやすい)土台」「老朽化が著るしい(※原文まま)」などといった惨憺たる言葉が並ぶ。諏訪町もこうした状況であったならば、東京都がそれを懸念して、「その周りに散在する不良住宅より優先して」整備しようとしても無理はないだろう。
一方、西武新宿線沿いのバラック横丁は、『東京都地区環境調査』には不法占拠どころか、そもそも不良環境地区として名前自体が載っていない。これは諏訪町周辺に点在する小住居群として半ば無視された可能性もあるし、「地区」と見なすには余りに細すぎ狭すぎる、壁沿いに少しできただけの「空間」だった事も影響しているのかも知れない。
諏訪町のスラムは後に区画整理が行われ、五輪開催&東西線開通の2年前にあたる1962年(昭和37年)に姿を消した。一方、バラック横丁は区画整理を免れ、戦後すぐの姿を保ったのである。

