◆BIG BOX登場&高度経済成長の影で
区画整理後も、高田馬場の駅前はただちに現在の姿となった訳ではない。代わりに小さな飲み屋や飲食店が密集する繁華街が出来上がり、少なくとも1969年(昭和44)年までは存続していることが、新宿歴史博物館の写真資料から確認できる。再度の変化が起こったのは、1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)年にかけて進行した、高田馬場駅前と早稲田通り周辺の再開発事業である。この時に駅前の『稲門ビル』『名店ビル』などが一体的に建設されたほか、駅前の広場とロータリーも整備され。現在の姿へかなり近づいた。
そして、1974年(昭和49年)には著名な建築家・黒川紀章の設計でBIG BOXが完成。西武鉄道グループの誇る大型複合施設であり、これをもって現在の高田馬場駅前のイメージは完成したと見ていいだろう。
こうした時代に、西武鉄道グループがなぜバラック横丁を放置していたかについては、確証こそ無いが様々な理由が推察される。まずバラック横丁の規模自体が小さいので、BIG BOX周辺の開発に比べても優先順位が低く、敢えて見逃されてきたという事は考えられる。

当時は東京が戦争の陰りからすっかり抜け出し、高度経済成長のさなか大変貌を遂げ、高田馬場も早稲田&東西線パワーでターミナル駅&学生街として急成長している途上である。そうした熱気や喧騒感から取り残され、日陰のように西武新宿線と高田馬場に寄り添い続けてきたのが、あのバラック横丁だったのかも知れない。
◆変わりゆく高田馬場


また、今後の高田馬場は建物老朽化や動線混雑を解消すべく、さらなる再開発が進行中。対象範囲はBIG BOXの南側・東側で、面積は実に約1.7haに及ぶという。
反面、旧店舗が解体されて「ただの壁」となったバラック横丁跡地は、今後どうなるだろうか。非常に奥行きが狭く、早稲田通りから目立つ訳でもなく、全体が坂道の途上にあり、頭上を電車の騒音が通り過ぎ、水道や電気の確保さえ困難。簡単に再開発できる場所でも、再開発して大きな旨味がある場所でもなさそうだ。
バラック横丁はある意味、不法占拠というイレギュラーな形で多数の小店舗が寄り集まったからこそ、独自の営みや文化が息づいた場所だったのだろう。


【参考資料・書籍 ※敬称略】
東京都民生局『東京都地区環境調査 ―都内不良環境地区の現況―』(1959年)
新宿区戸塚地区協議会 まちづくり分科会『写真集 高田馬場・西早稲田 ふるさと戸塚 ~まちの記憶』(2011年)
北沢友宏・根本次郎・いしわたり康・桝元誠二『目で見る 新宿区の100年』郷土出版社(2015年)
本岡拓哉『「不法」なる空間にいきる ――占拠と立ち退きをめぐる戦後都市史』株式会社大月書店(2019年)
坂上正一『発掘写真で訪ねる 新宿区古地図散歩 ~明治・大正・昭和の街角~』株式会社メディア・パル(2021年)
【参照サイト】
(再開発について)「高田馬場駅の東口地区で再開発予定!駅前の狭さを解消してより快適に」アットホーム
(駅の乗降者数)「1日の利用者数が多い駅のランキング」スタディサプリ
(稲門ビル)1969(昭和44)年の「高田馬場駅」駅前 三井住友トラスト不動産
―[東京“不法占拠”をめぐる旅]―
【デヤブロウ】
東京都在住。2024年にフリーランスとして独立し、ライター業およびイラスト業で活動中。ライターとしては「Yahoo!ニュース」「macaroni」「All Aboutニュース」などの媒体で、東京都内の飲食店・美術館・博物館・イベント・ほか見所の紹介記事を執筆。プライベートでも都内歩きが趣味で、とりわけ週2〜3回の銭湯&サウナ通いが心のオアシス。好きなエリアは浅草〜上野近辺、池袋周辺、中野〜高円寺辺りなど。X(旧Twitter):@Dejavu_Raw

