
一人の若く有能な労働者がメンタルヘルスの不調で現場を去ることは、単なる個人の悲劇に留まらず、教育現場における「人的資本の重大な損失」を意味します。特に、人手不足が深刻化し、肉体的にも精神的にもハードな教師の離職は、労働生産性の低下だけでなく、将来を担う世代への教育サービスの質の低下という多大な社会的損失を招きます。いま、現場で何が起きているのか。本記事では、精神科医・広岡清伸氏の著書『ごめんなさい、もうこれ以上頑張れません 生きづらい社会で傷ついた人が、再び「自分」を取り戻すまで 』(アスコム)より一部を抜粋・再編集し、25歳の若き教師が直面したパニック症の闘病記から、キャリアを守るための必須スキルについて考えます。
家から出られなくなってしまった娘
水野沙耶(仮名)さんのお母さんから電話が入りました。
母親:2カ月前から娘が家から出られなくなってしまって……。もうどうしたらいいのかわからなくて……。
広岡:それはご心配ですね。一度、クリニックでお母さまと娘さんの3人でお話ししませんか?
母親:少し時間がかかるかもしれませんが、声をかけてみます。
広岡:無理はなさらないでください。娘さんが少しでも「行ってみようかな」という気持ちを見せてからで十分です。
水野さん親子がクリニックを訪ねてきたのは、それから2週間後のことでした。お母さんの後ろから、やせた顔の水野さんが母親の背中に少し身を隠しながらついてきました。
広岡:ここに来るまでも、たいへんだったようですね。
水野:ええ……玄関のドアを開けて外に出ただけで、胸を押さえて、息が苦しそうになって。そのまま座り込んでしまって、手も震え出して……。目の前が……真っ暗になって……。このまま、死ぬんじゃないかって。
広岡:そうでしたか。とても怖い思いをされましたね。体の反応が強く出たんですね。でも、今日はここまで来られた。それ自体が、大きな一歩です。少しずつでかまいません。どんな経過だったか、聞かせてください。
水野:はい……わたしは中学校の教師をしています。子どもたちに教えたり、話したりするのが楽しくて……やりがいも感じていました。生徒の笑顔を見るたびに……「この仕事を選んでよかった」と思えたんです。教師の仕事って、子どもたちと向き合うだけじゃなくて。授業の準備、テストの採点、行事の企画、保護者対応、同僚との打ち合わせ……。授業の合間にも“やることリスト”が頭の中でどんどん増えていって。気づくと夜遅くまで職員室に残っていました。まだ新人で仕事も遅くて、いつも最後まで残って……。机の上のプリントを見ながら、ため息ばかり出ていました。
広岡:真面目に一つひとつ向き合おうとされていたんですね。その積み重ねによる心の疲れが、少しずつ体のほうに出てきたのかもしれません。
水野:そう……かもしれません。くたくたで……それでも「もう少しだけ頑張らなきゃ」って、自分に言い聞かせて……。コーヒーを飲みながら、夜遅くまで仕事をしていました。
真面目な水野さんは、頑張りすぎてしまったのかもしれません。大好きだった教師の仕事も、だんだんと「つらい」と感じるようになります。休日も心が休まらなくなります。出かけようとしても気が重く、街の雑踏に足を踏み入れると、頭の奥がズキッと痛むようになりました。
最初のパニック発作
こうした生活のなかの疲労が過度にたまると、わずかな刺激でも体が危険と判断しやすくなります。本来なら何ともない場面でも、体が警報を鳴らしてしまうのです。その違和感を気のせいだと片づけ、水野さんはまた月曜日の朝を迎えます。
水野:25歳になったばかりのころだったと思います。朝起きたときは、いつもより体調が良いと思っていました。しかし、家を出て、駅までのバスのつり革につかまり、窓の外をぼんやり眺めていたとき、胸の奥がドンと跳ねたような気がしたんです。心臓の鼓動が……、どうにもできないほど速くなって……。心臓が暴れるように速く打ち始め、息がうまく吸えなくなりました。このまま、死んじゃうんじゃないかと思ったくらいです。
そのときの状況を思い出したのか、太ももの上で強く握っていた水野さんの手が震え始めたのがわかりました。お母さんはそんな娘の姿に心配そうな表情を浮かべていました。
水野:手足が冷たくなってきて……、視界の周りがぼんやりして、周りのざわめきが遠のいていって。
母親:気づいたときには救急隊員の方から名前を聞かれていたそうです。
広岡:それまで積み重なっていた心身の疲れが、この瞬間に一気に表面化したのだと思います。ぎりぎりまで頑張り続けると、不安や恐怖を感じる脳の部分がとても敏感になり、ふだんなら何でもないはずの通勤バスの中で、発作のスイッチが入ってしまうことがあるのです。
わたしはバスの車内で水野さんの体に起きた症状を「パニック発作」だと考えました。パニック発作とは、日常生活の中で突然、激しい動悸や息苦しさ、めまい、吐き気、手足や唇のしびれなど、自律神経が激しく反応する状態です。視野が急に狭くなったり、床が盛り上がって迫ってくるように感じたり、胸が痛むといった知覚の過敏さを伴うこともあります。
しかし、多くは10〜20分程度で自然におさまります。救急搬送された時点で落ち着いていることも珍しくありません。心電図や胸部レントゲンが「異常なし」となることが多いのも特徴です。問題は、その経験から「また起きるのではないか」という予感がふくらみ、心が先回りして警戒態勢に入ることです。これが「予期不安」です。
水野さんの教師生活もたった一度のパニック発作から崩れていきます。
