港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:六本木の雑居ビルでの忘れられない夜。最悪の出来事が運命の出会いに繋がった瞬間とは
「あ~あ、どこの坊やだい、うちの番犬にケンカを売っちゃったバカは。狂犬になる前にとっとと逃げた方が、アンタたちのためだと思うけどね」
低い声で登場したその女性は、目の下に傷のある男性と、その背に庇われている明美を一瞥もすることなく追い越すと、3人のホストたちを、ふーん、と品定めするような口調で続けた。
「アンタたち3人とも目も鼻も、そっちの坊やは顎もだね。大金をつぎこんで作り替えたお顔が、ボロボロになったら困るだろ?」
そっちの坊やと呼ばれた銀髪が、慌てて顎を手で覆い隠した。地面に転がったままだった彼を、黒髪が抱きかかえるように立ち上がらせ、そのまま2人で後ずさりしていく。
「あ?なんだよ、このやたらとド派手なバアさん。おばあちゃんは、もうそろそろ、おうちでねんねする時間じゃないんですかぁ~?なぁ?」
同調を求めた金髪ホストが下卑た笑いで振り返った時には既に、銀と黒はエレベーターに逃げ込んでいた。おい、お前ら待てよ!と響いた金髪の声を断ち切るように扉が閉まり、2人はみるみる上昇していく。
目の下に傷のある男性の大きな背に庇われ、ようやく震えが落ち着いてきていた明美にも、今登場した女性は、金髪の言う通りに「おばあさん」であり、「派手」にも見えた。けれど。
― 身に着けているものは…。
縦にも横にも迫力のある体を包み込みこんで輝くボルドーのロングドレスは、ただのサテンではなくシルク。しかもかなり上質な。
国内外の要人も訪れる老舗料亭で育った明美は、祖母や母から、料理の素材だけではなく、日常品から芸術品に至るまで、その価値を正しく判断し、“本物“を見極められるようにと、知識を叩きこまれるようにして育った。
だからわかる。ドレスだけではなく、耳たぶや首元で光るアクセサリーも、この女性が身に着けている全てが超一級品で、選ばれた人だけが手に入れられるものだ。
「おばあちゃん扱いしてくれるつもりなら、その口の利き方はなおさら宜しくないねぇ。お年寄りには優しくしなさいっていうのは、世界中の常識だろうが」
威勢がいいのもほどほどにしないとねぇ…と女性は金髪にずんずんと近づいていく。
ビルの床を鳴らす足音には重厚感があり、マキシドレスの中に隠れているのは太目のヒールだろうか。175cmほどありそうな金髪ホストと並んでも引けを取らないばかりか、女性の方が大きく見えた。
「クソガキが。この街で生き残るためのルールを一つ、教えてやるよ」
ドスの利いた、けれど楽しそうでもある声。金髪がヒッと小さく息を飲み、腰を抜かしたように尻もちをついた。明美からは女性の背しか見えず、その表情は分からないのに、なぜか背筋がゾクッと震えた。
はぁ~とため息をついて、「年寄りをしゃがませるもんじゃないよ。最近は膝の調子もよくないっていうのに」と、金髪と同じ目線になった女性の横顔が見えた…と明美が思った瞬間、その赤い唇が、にぃっと動いた。
金髪は遠目にも分かる程に怯え、その目尻に涙が浮かび、頬を落ちていく。あらあら、とその涙を拭った女性の指は年齢を物語ってはいたけれど、爪先には上品な光沢のボルドーのネイル。薬指には巨大な緑色の石…おそらくエメラルドの指輪が嵌められている。
キレイ…と明美が見とれた瞬間、いいかい?と、声が響いた。
「小者は小者なりに、自分の器を知って分をわきまえること。逃げてった2人の方がよっぽどおりこうさんだったってことさ。この街ではね…噛みつく相手を間違えちゃ絶対にダメだ。じゃないと…」
女性はもう一度ニヤリと口角を上げると、その口内で丸めた舌を、タンっ、と弾いた。まるで銃声のような、乾いて澄んだ音が響く。直後、尖ったボルドーの爪先が、のけぞり震える金髪の首筋を、掻っ切るようにゆっくりと撫ぜていく。
「あっという間に地獄行き、だよ」
◆
腰を抜かしたままの金髪が、足をもつれさせながらもなんとか逃げ去った後、助けてもらった感謝を伝えた明美は、女性になぜここにいるのかと聞かれた。見ず知らずの人に話してもいい事情なのだろうかと躊躇し言葉を濁した明美に、女性は眉根を寄せて、鼻で笑うようなため息をついた。
「アタシはまた、厄介ごとに首を突っ込んじまったのかねぇ」
目の下に傷のある男性が「今、アイツらの元締めに出てこられると面倒なんで、戻りましょう」とちらりと明美を見ると、そうだねぇ、と女性は続けた。
「アイツらの店の元締めは…お嬢ちゃんにも理解できるように言うなら、いわゆる反社ってやつで、ここ最近、だいぶ悪さが目立ってきてたからさ。今日は話をつけにここに来たんだけど…お嬢ちゃんを巻き込むわけにいかないからね」
そうして明美は、女性が経営しているという『Sneet』というBARに、店を開けなきゃいけない時間だからと、半ば強引に連れてこられた。女性は光江と名乗り、男性はミチだと紹介され、2人が店主と従業員という関係であることも知った。
ミチは到着と共にカウンターに入って開店準備を始め、明美は、10人は座れそうなソファーのある個室に連れられ、光江と向き合って座ることになった。
「…ここは、どんなお店なんですか?」
明美の質問に、光江がハッっと吐き出すように笑った。
「少なくとも反社の店じゃないから安心しな」
それでも明美の緊張は抜けなかった。店の奥にあったこの個室にたどり着くまでに歩いてきたフロアは、天井の高い吹き抜けで、明美がもし一人なら臆して入れないほど洗練されてはいたけれど、ただのお洒落なBAR…には見えた。
けれど、この個室に入る時、光江の指紋認証で開いた扉が、閉まると共に、ピーッと施錠された電子音がした。つまり明美は今、この部屋に閉じ込められている。
先ほどミチが温かいお茶を運んできたものの、今は2人きりで、フロアでは流れていた音楽が少しも流れてこないということは防音壁なのだろう。そんな完璧な密室で、光江から放たれるオーラを浴びながら、先ほどホストたちを瞬殺した迫力を改めて思い出すと、堅気ではない稼業の気配を感じて警戒してしまう。
「アタシを警戒するのは正しいよ。でもその警戒心は、もっと早く使うべきだったね。アンタみたいなお嬢ちゃんが、無防備に出かけてく場所じゃないんだよ、あのあたりは」
お嬢ちゃんと言われる年でもないのだと反論するのは無意味だと感じて、明美は改めて救われたことへのお礼を伝えてから続けた。
「…でも、私はどうしても、もう一度あのビルに行って、会わなければならない人がいるんです」
「あのビルに?誰か知り合いでも?」
「4階にあった…その、キャバクラに…」
娘が…と言いかけて言葉に詰まった。未成年のルビーが違法で働くことを選んだのは自分のせいだ。あんなに危険な場所に娘を送り込んでしまった情けなさすぎる母親。いや、母親と名乗る資格すらない。
そんな明美を射貫くように、ギロリ、と光江の目が光った。
「顔を上げて、ちゃんと説明しな」
おそるおそる顔を上げた。怖いけれど目が離せない。というよりも離すことを許されないように光江の瞳に捉えられ、耳が痛くなるほどの静寂。その中で、明美は自分の心臓の音だけが部屋中に響き渡っている気がした。
ふっと、光江の口元が緩み、ほんの少しだけ目尻が下がった。そして。
「出会っちゃったんだから、仕方がないね」
「…え?」
「アンタの人生に踏み込んだ責任を取るよ。そのキャバクラを、あのビルごとね」
― やっぱり、痺れるな…光江さんにも、ミチさんにも。
明美から聞かされた光江との出会いの話が、想像より随分とドラマチックだったことに驚きながらも、ともみは今、光江と、そしてミチと共に働けている自分の幸運に改めて感謝した。
「光江さんに、もう二度と1人であの店に近づかないように約束させられました。力のない人間のそれは、勇気ではなくただの無謀だし、大迷惑だからと。それから3日後にもう一度来るように、と。それで3日後に、光江さんと一緒にルビーの店に行きました。そこからはもう、あっという間の出来事で、今でも何が起こったのかって感じなんです」
明美と一緒に“4階のキャバクラ”に乗り込んだ光江は、勤務中だったルビーを連れ出し、その後、店ごと潰してしまったという。どうやらそのビルに入っていた全ての店の経営者は同じだったようで、警察が乗り込み違法行為が次々と摘発され、最終的にはそのビルごと解体されたらしい。
「店を出る時、ルビーは、随分暴れたんじゃないですか?」
ええ、そりゃぁもう、と明美は懐かしそうに、ほんの少しだけ笑った。
「お酒のボトルとか、自分のはいていた靴とか、何もかもを投げまくって抵抗するし、私にも光江さんにも、クソババア!の連発で。絶対にアンタたちにはついて行かないと叫んでいたんですけど、最終的には、軽々とミチさんに担がれちゃって。そのまま連行されちゃいました」
軽々と担ぐには、ルビーの体はボリューミー過ぎる気がするけれど、ミチならばなんとかするのだろうと容易に想像できて、ともみにも笑みが浮かんだ。
そこからルビーは、光江の元で“健全”に働くことになった。光江の家に住み込み、家事を徹底的にたたき込まれ、BAR・Sneetの雑用係としても雇われ、22時以降は帰宅という日々が、18歳までは続いた。
「私ももう一度……一緒に暮らしてくれないかな、とお願いしてみたんです。それがイヤなら生活資金を援助させて欲しいと伝えたんですけど、ダメでしたね。アンタに援助されるくらいなら、また逃げるって。
だから、光江さんが…というより、ミチさんが、時々ルビーちゃんの写真を撮って私に送ってくれていたんです。ルビーちゃんが光江さんのところを出て、1人暮らしを始めてからも、電話番号はもちろん、住所も教えてもらえなかったから、私は手紙やプレゼントをSneetに送らせてもらっていました。
受け取ってくれているかはわからないんですけどね、と、明美は続けた。
「実は何年か前にこっそり、あの子のポールダンスのショーを見に行ったことがあるんです。その時もミチさんが、見つからないように一番後ろの席を手配してくれました。キラキラしてて、とてもカッコよくて、眩しくて。私、バカみたいに泣けてきちゃって」
もどかしい、と、ともみは胸をかきむしりたい気持ちになった。確かにルビーが明美を恨むのは仕方がない。母親だと認めたくないのもわかる。ただ…一度間違えたらもう、二度と許してもらえないのだろうか。
PTSDを抱えた明美が、なんとかやりなおそうとした精一杯が、確かに存在しているのに。
けれど、本当は母も必死でしたと伝えたからといって、ルビーが救われるとは限らない。むしろ――自分の顔が母親にPTSDを引き起してきたことを知ってしまえば、あの優しい女の子がどうなるのかは……だから光江もルビーに伝えないことを選んだのだろう。
「あの子を手放した時の…あの時の状況のありのままを告げて謝ることで私は楽になれるかもしれません。でも楽になれるのは私だけで……光江さんのお陰で今、本当に幸せそうなルビーちゃんに…新たな傷をつけてしまうかもしれない。だったら恨まれたまま…いなくなった方が良いとずっと思ってきました」
「…でも、ダメだったんですね」
「はい。最後にどうしても、もう一度だけルビーちゃんに会いたいって欲が出て、抑えきれなくなってしまって。ほんとどこまでもダメな親だな、って情けなくなるんですけど、それでも、もう一度だけ…」
1年と宣告された明美の余命。血液のがんだという。病状を詳しく掘り下げることをするつもりはないが、ともみのもどかしさはさらに募ってしまう。
「1ヶ月前くらいに、光江さんに連絡して今、宮城にいることを伝えました。最後に一目、ルビーちゃんに会いたいと。恥をしのんでお願いしました。光江さんには余命のことは伝えていませんが、先週…ルビーがアンタの居場所を知りたいと言ってきた、と電話が来たんですよね」
「お客さんたちを見ているうちに、向き合わなければいけないと思った」と言ったルビーの言葉が蘇る。きっとそれで光江に頼み、明美の連絡先を手に入れたのだろう。
「ある日仕事から帰ると、ルビーちゃんが、私の家の前に立っていました。もう、夢みたいで。すぐに家に入ってもらって話そうと思ったんですけど、それは断られてしまって。一週間くらいは近くのホテルに泊まってるから、アンタの都合のいい日に一緒に東京に来て欲しいと言われました。2人きりだとちゃんと話せる気がしないから、自分が働いている店、信頼する上司がいる店でその人に見守ってもらいながら話したいと。
会いに来てくれただけでも信じられなかったのに、きちんと話すための提案までしてくれるなんて。それが本当にうれしくて。なのに…宮城からこちらに向かう途中も、この店でも、何から話せばいいかわからなくて、少しでも明るく振舞いたいと思って、必死で…でも、やっぱり……当たり前ですけど、そう上手くはいかないものですね」
「6歳のルビーは見事解放されたので」と飛び出して行ったルビーは、諦めたと清々と笑っていた。でも本当に…自分の知らぬまに明美の存在がこの世から消えても、ルビーは本当に後悔しないだろうか。だってルビーは、大きな誤解をしたままだ。少なくとも明美は“男を選んでルビーを捨てたわけではない”はずなのだから。
確かに、明美は恋愛体質なのだろう。けれど、だれかれ構わず恋に落ちるというわけではなく、運命の恋を信じる純粋さがあったが故に、全身全霊で愛しすぎた。だから裏切られた時その反動は大きく、PTSDと闘うことになったのだろうし、母親としては厄介な性質かもしれない…でも…と、ともみはずっと気になっていたことを聞いた。
「ルビーは、明美さんが男性を…恋を選んだから捨てられたって言ってましたけど…でも、本当は違いますよね?それなのになぜ、ルビーはそう誤解したんでしょう。明美さんも…なぜさっき、反論しなかったんですか?」
「ルビーちゃんがなぜそう思っているのか、その理由はわかりません。でも、私が反論できなかったのは…」
明美の目が伏せられた。
「ルビーちゃんと離れている間に……ある男性に頼ってしまっていたことは事実だからです。私の症状が安定せずにルビーちゃんに会えないことが続いたり、仕事が決まらなかったときも、相談にのってくれて、ずっと支えて下さった方で。
今、宮城で観光のお仕事をさせてもらっているんですけど、それもその人のご紹介があったから働けているんです」
「…その人とはいつから?」
「ルビーちゃんが、中学生になった頃に出会いました」
「頼った、というのは、お互いに恋愛的な好意があってのことなんでしょうか」
恋愛…と小さく呟いた明美は、恋愛はもうずっと怖いんです、と自虐的に笑った。
「私が、光江さんみたいに…強い人だったら。病気にもならず、男性にも頼らず、1人で生きることができていたら、もっと堂々とルビーちゃんに向き合えたのかもしれません。母親というのは、子どものためならどこまでも強くなれるはずだと随分言われてきたのに、そうありたいのに…私は本当に情けなくて…」
唇を噛んだ明美の笑顔が哀しい。
― やっぱり、これが最後なのは、ダメな気がする。
ともみはルビーを想いながら、言葉を選んだ。
「明美さんが男性を頼ってでも、ただ生き続けてくれたこと、私は本当に良かったなって思いますよ」
ゆっくりと顔を上げた明美の細くて青白い首筋が、余命を聞いてしまったからなのか、余計に頼りなく弱々しく見える。
「生きていてくれないと、ルビーが今日あなたと話すことはできなかった。憎しみだって生きているからぶつけることができるんです。それだけで意味があったと私は思います。でもだからこそ…」
今日を本当に最後だと思うなら、と、ともみは共犯者の笑みを浮かべて明美を見つめる。
「最期の最後まで一緒に足掻いてみましょうよ。私にも…明美さんと出会った責任をとらせてください」
▶前回:六本木の雑居ビルでの忘れられない夜。最悪の出来事が運命の出会いに繋がった瞬間とは
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
▶NEXT:2月10日 火曜更新予定

