
その経歴は極めて異色である。早稲田実業野球部で春の甲子園ベスト8を経験し、三井住友信託銀行に入行。しかし、将来を嘱望されたエリートコースをわずか1年半で外れ、独立を決断した。その後、日給8000円のゴルフ場キャディとして食いつなぐ時期も経験したという。
どん底から這い上がり、なぜこれほどの資産を築くことができたのか。その裏にある投資哲学と波瀾万丈な半生に迫った。
◆昭和的な気合と根性に満たされた野球界に嫌気がさし、人生初の「損切り」

「春の全国大会出場を経て、夏の予選でも強豪に勝利。全国への切符をほぼ手中に収めた直後のことでした。監督が『練習の参加率が低い。勝てばいいわけじゃない』と激昂し、雨の中で3年生全員を正座させて説教を始めたんです。納得している部員など一人もいませんでしたが、一人ずつ詰め寄られると、誰も監督に楯突くことはできません。
そんななか、私が正直に『受験勉強と野球を両立させたい』と伝えると、その場で『やる気がないなら、今すぐ辞めろ』と、まさかの退部宣告。監督からすれば『それでも野球をやらせてください』という言葉を引き出したかったのかもしれません。ですが、私は『話の通じない相手に頭を下げてまでしがみつく必要があるのか』と思い、その場でユニフォームを返すことに決めたのです」
「せっかくここまで頑張ったのだから」という感情的な執着を捨て、今の自分にとって何が一番大事かを天秤にかける。そして、見込みがないと判断した場所からは潔く撤退する。15歳の武藤さんが下したこの合理的な決断は、まさに人生初の「損切り」だった。この判断が功を奏し、武藤さんは見事、難関・早稲田実業への合格を勝ち取ることになる。
◆名門校・早実で甲子園の土を踏みしめるも……

しかし、武藤さんの野球人生は決して順風満帆ではなかった。2年生の秋、新チームでレギュラーの座を奪取した矢先、重度の肉離れが武藤さんを襲った。それでもポジションを譲るまいと痛み止めを飲んで試合に出場。甲子園への切符を掴むまでは執念でレギュラーを張り続けたが、無理がたたって怪我が悪化し、深刻な不調に陥ってしまう。奪い取ったはずのポジションは、甲子園を目前にして無念にもライバルの手に渡った。
「3年生の夏には、レギュラー復帰を諦めて二軍のキャプテンとしてチームを支えると腹を括りました。その時、人間には『適材適所』があるのだと身をもって知ったんです。同世代には、のちにメジャーで活躍する菊池雄星選手のような『野球の才能100点』の怪物たちがゴロゴロいた。彼らと比較したとき、自分は全科目80点の『バランスタイプ』だと悟りました。
ですが、突出した才能がなくともレベルの高い環境に身を置き、適切な努力を継続しさえすれば甲子園にだって手が届く。この早実時代の教訓が、その後の人生を大きく左右することになりました」
武藤さんは、早稲田大学入学を機に野球を引退。遊びに耽る同級生たちを尻目に、大学4年間を「次の勝負場所への準備期間」と再定義した。祖父の「会計・英語・ITを学べ」という助言を信じ、奨学金と親からの借金、計400万円をかき集めて自己研鑽に没頭。ビジネスコンクールでの優勝など、着実に“使える手札”を揃えていった。

