日本庭園は「里山」か「モダンアート」か。近代を変えた2人の天才、小川治兵衛と重森三玲

日本庭園は「里山」か「モダンアート」か。近代を変えた2人の天才、小川治兵衛と重森三玲

東福寺(京都)

明治以降、日本の庭は単なる伝統の継承から大きく飛躍しました。都市の中に「里山」の風景と小川のせせらぎを再現した小川治兵衛と、枯山水を幾何学的な「モダンアート」へと昇華させた重森三玲。「無鄰菴」の計算された自然美と、「東福寺」の知的で前衛的な空間美。対照的なアプローチで伝統を革新した2人の天才の仕事から、近代日本庭園の奥深い魅力について、フランス在住の庭園文化研究家、遠藤浩子さんが解説します。

近代日本庭園の誕生と革新

無鄰菴(京都)
無鄰菴(京都)rolling rock/Shutterstock.com

明治以降の日本では、政治や産業だけでなく、人々の暮らし方そのものが大きく変化しました。西洋建築が都市に姿を現し、人々が別荘や庭園に「心の余裕」を求め始めるなかで、日本庭園もまた新しい姿へと歩み始めます。いわゆる「近代日本庭園」です。その特徴は、単なる伝統の継承にとどまらず、新しい自然観や美意識をどのように庭として形づくるかという問いへの挑戦でした。

本記事では、その代表的存在である造園家たち、小川治兵衛(植治)と重森三玲に焦点を当て、彼らがどのように作庭に革新をもたらしたのかを見ていきたいと思います。

小川治兵衛―都市に“自然”を呼び込んだ庭師

無鄰菴(京都)
無鄰菴(京都)。東山を借景に、明るい芝地を小川が流れる里山の風景。伝統的な日本庭園の技法を、新たな感性で昇華させた革新的な庭。

明治時代、京都に琵琶湖疏水という大事業が完成したことはよく知られていますが、この新しい水の流れは、実は京都の庭文化にも大きな影響を与えました。この時代に活躍したのが、近代日本庭園の基礎を築いた七代目植治こと小川治兵衛(1868~1912年)です。

彼の代表作として知られる無鄰菴(むりんあん)では、京都・東山を借景に、まるで田園風景の中を歩いているかのような自然な小川の流れとなだらかな地形が再構成されています。この里山の流れの風景には、琵琶湖疏水が使われ、東山地区には治兵衛による庭園が次々とつくられました。

無鄰菴(京都)
庭の中心で、かつては大海を表した池が、ここでは流れる小川となる。浅瀬の小石は水の動き際立たせ、等身大の自然に触れる爽やかな印象を与える。

治兵衛の庭づくりの革新性は、地形を読み、そこに水を通わせることで景色に「動き」を生み 出したことにあります。また、それまでの枯山水中心の庭や、境界が明確な武家屋敷の庭とは異なり、無鄰菴は視線を座敷から遠くまで通し、空間を外へ外へと広げる開放性が特徴です。これは、西洋建築や洋風生活が取り入れられていく時代において、都市の中に自然を取り込む新しい庭の姿となりました。

無鄰菴(京都)
家屋内外から庭へと連続する眺望。計算された自然の演出の近代性が感じられる。右写真/Marie Zedig/Shutterstock.com

また無鄰菴の庭は、施主である山縣有朋という近代国家の立役者との二人三脚によって実現した点でも興味深い存在です。山縣の構想と植治の技術が組み合わさることで、単なる庭の美しさを超え、近代日本が求めた思想や生活観までもが反映された空間が生まれたのです。

従来の日本庭園は、山や海の自然風景を縮景として庭の空間に表現してきました。しかし治兵衛の庭では、単に自然を模倣するのではなく、せせらぎの水音や木々の揺れといった、自然の中に身を置いているかのような感覚そのものが追求されています。暮らしに寄り添いながら自然のリズムを日常に取り戻そうとする、いわば自然主義的な庭は、近代日本庭園への第一歩となりました。

平安神宮庭園(京都)
平安神宮庭園(京都)も無鄰菴とほぼ同じ頃に治兵衛によって作庭された。かつての三条大橋や五条大橋の架け替え時に廃棄された橋脚の石材を再利用した「臥龍橋」の意匠はよく知られる。cowardlion/Shutterstock.com

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