◆これまでのあらすじ
元彼である豪のことが忘れられない市子…。
初詣で再会した夜、豪に「もう一度付き合って欲しい」と伝えた市子だったが、豪から返ってきた言葉は…。
▶前回:初デートも2回目も、いい雰囲気でも2軒目に行かずに解散する男。その理由とは?
Vol.13 <市子:池尻大橋のラーメン>
つま先が、氷のように冷えている。
暖房を強くしても分厚いふとんを被っても体はなかなか温まらず、とても眠りにつけそうにない。
もう深夜の1時を過ぎるというのにまんじりともできない私は、ただベッドの中でスマホを握りしめていた。
今年の冬は去年に比べてずっと寒い気がするのは、気のせいだろうか?少し考えて、すぐに答えに行き当たる。
― ううん。きっと、気温のせいじゃない。
去年の今頃はもう豪くんと再会していて、一世一代の恋の真っ最中だったのだ。今とはあまりに状況が違っている。
豪くんと別れて以来無理なダイエットをする必要もなくなり、どちらかといえば冷え性だってマシになってきている。それなのに凍えるような寒さを感じるのは、ひとえに私の心が孤独と苦しさを抱えているからなのに違いなかった。
― あれ以来、まだ連絡もらえないな…。
いつのまにか、世の中は2月だ。遅い初詣での再会から、すでに3週間が経過していた。
スマホを握りしめながら目を閉じると、すぐにあの時のことを思い出せる。
深夜の鎌倉。
豪くんのハリアー。
シートのコーヒーのシミ。
カップホルダーのガムのボトル。
「私はまだ豪くんが好き。もう一度、戻れない?」
そう尋ねた私に、豪くんが悲しい顔で返した「ごめん」の一言。
そして──。
その後に続けた、短い言葉を。
「ごめん」
あの夜。運転席の豪くんは、悲しい顔で下を向きながらそう言った。そして少しの沈黙の後…小さな声で続けたのだ。
「少し、考えさせてほしい」
と。
いつまでも深夜の初詣から戻らない私を心配したのだろう。父が玄関のドアから出てくるのが見えたことで、その場はすぐに解散になった。
「また連絡する」
これだけ時間が経ってしまうと、豪くんが去り際に運転席の窓からそう言ってくれたことが、夢だったようにも思えてくる。
もしかしたら、夢だったのかもしれない。豪くんのことが諦めきれない私の、悲しくも都合のいい夢。
― やばい、泣きそうかも。
みじめさで、深い穴のような悲しみに吸い込まれそうになる。慌ててふとんを跳ね除けて、心の中で唱えた。
― ダメダメ!眠れない夜に必要なのは、涙じゃなくて熱い出汁でしょ。今の私は、それを知っているじゃない。
パジャマを脱ぎ捨て、ゆったりとしたバレルデニムに履き替える。ウールのニットにテディコートを重ねる。また深夜のおでん屋さんへと出かける準備だ。
温かいものをお腹に入れれば、きっと元気が出るはず。
そうしたら…そうしたらまた、夜の勢いに任せて豪くんにメッセージを送るのだ。
― そうだよ。少なくとも、ブロックされてないってことは分かったんだし。さすがに3週間も待たされてるんだから、こっちから1回くらい連絡したって全然…。
最低限の身支度を整えた私は、そうやって自分を鼓舞しながら、ベッドに放り出していたスマホを拾い上げる。
そして、何気なくタッチした画面に目をやり──「えっ!」と小さな悲鳴をあげた。
だって、今はもう深夜の1時だというのに。
少しのあいだ目を離していただけなのに。
『市子、まだ起きてる?』
私のスマホには、そんな豪くんからのメッセージが届いていたから。
◆
おでんを食べるために身支度を整えた私は、だけど結局、お店には行かないことにした。
出かけるのをやめたわけじゃない。行き先が急遽、変更になったのだ。
『酒と麺 タイノタイ』。
深夜の3時まで営業しているというその店は、私の家から10分少し歩いた池尻大橋にあった。
どうやら海鮮居酒屋らしいけれど、カウンター席もありスタイリッシュで洗練された雰囲気で、いかにも豪くんに似合う感じがする。
ほんの15分前。
『起きてるよ』
胃と心臓が握りつぶされそうな感覚に負けじと、すぐにメッセージにそう応えると、豪くんからの返事もすぐに返ってきた。
『こんな夜遅くにごめん。もしよかったら、今から会えないかな。市子には、会ってちゃんと説明したくて』
そうしてここに呼び出され、私は今1人でお店の片隅のテーブル先に座っているのだった。
― 説明、かぁ。
その事務的な言葉の響きから、話の内容はうっすらと推察できた。まだ好き、という気持ちには、“説明”という響きはあまりにも事務的すぎる。
「すみません。私、お酒飲めなくて…。ジンジャーエールをいただけますか」
店員さんにソフトドリンクを注文しながらふと、クリスマスの頃に夜の新宿で見かけた女の子の姿を思い出す。
勇気を出してLINEした日、夜中までお鮨を食べていたという相手は、なんとなく彼女が相手なような気がした。
お酒が飲めない私を居酒屋に呼び出すことにも、きっと意味があるのだろう。意味というより、説得力みたいなことかもしれない。
でも…。
『市子には、会ってちゃんと説明したくて』
豪くんが私に対して誠実でいてくれることは、やっぱり清々しいような気持ちだ。
外には真っ暗な夜が広がっている。店を出てしまえば、帰り道の涙は誰にも見られない。
― せめてお店にいるあいだは、絶対泣かないようにしなきゃ。
運ばれてきたジンジャエールを一口飲みながらそう決意した時、入口から豪くんが駆け込んでくるのが見えた。
「ごめん、待たせちゃった。十番からタクシーで飛ばしてもらったんだけど」
「あ…ひさしぶり」
豪くんは、緊張で硬くなった私の挨拶を無視したまま、慌ただしく私の向かいに座る。そして席につくなり、大きな声で信じられないことを言ったのだ。
「すいませーん!真鯛旨塩ラーメン、ふたつお願いします!」
張り裂けそうな切ない気持ちを抱えていた私は、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「え?ラ、ラーメン?」
「ごめん、勝手に注文して!でも市子、20時以降食べないっていうのやめたんだよね?」
「う、うん。実はさっき連絡もらった時も、1人でおでん食べに行こうと思ってたくらい」
想像していたのとはまったく違うとぼけた会話に、調子が狂う。けれど豪くんは、そんなことは全く気にならないらしい。
「おでん!?こんな深夜に、市子が?」
そう言いながら目の前で、わっはっは、と大声で笑い出す。その表情はまるで、ずっと欲しかったプレゼントをもらった子どもみたいだ。
もしかしたら、けっこうお酒を飲んでいるのかもしれない。
心配と同時にほんの少しだけ腹立たしいような気もしたけれど、ひとしきり笑い終わった豪くんは、お冷で喉を潤したかと思うと、サラッと口にするのだった。
「いや、そっか。よかったよかった。実はさ、付き合ってた頃は言ってなかったんだけどさ。どーーーーしてもここのラーメンを市子と一緒に食べてみたかったんだよね」
そう言われて悪い気がしないのは、いわゆる、惚れた側の弱みというやつなのだろう。
軽くて甘い物言いに、豪くんのことを好きになった高校時代のことが蘇る。
「いいね。廣田さんと結婚したら楽しそう」
卒業文集に「将来の夢:結婚して幸せな家庭を築くこと」と書いた私に、嫌味なくサラッと言ってくれた豪くん。
あの頃から全然変わっていないこの人が、私はやっぱり、どうしようもなく大好きなのだ。
豪くんが勝手に頼んだ「真鯛の旨塩ラーメン」は、あっという間にテーブルへと運ばれてきた。
「ここ、居酒屋じゃなくて鯛出汁らーめん屋さんとしても営業してるんだよ」
「へえ、そうなんだ」
自分でも、気もそぞろな返事だったことがわかる。でも仕方ない。だって、目の前に置かれたラーメンのどんぶりは…あまりにも魅力的で、全神経を集中させられざるを得ないような一品だったから。
鯛の出汁の香りが立ち上る黄金色のスープ。その中できらきらつやつやと輝く太めの麺。見るだけでジューシーな味わいが伝わってくる桃色のチャーシュー。
気がつけばもう、私も豪くんもどんぶりに顔を突っ込んでいた。
スープを味わい、麺を啜る。愛媛の真鯛のみで丁寧にとったというお出汁は、口に含んだ途端に香ばしい香りが広がるほど強い味わいなのに、あっさりとしていて体に染み渡る。
そのスープをたっぷりと纏った麺は、つるつるもちもちとしていて歯に楽しく、でも、いくらでもお腹に入りそうに優しい。
鯛の旨みがそのままスープになったようなコクと、喉を滑り落ちる麺の悦び。
もはや罪とも言えそうな深夜の極上の快感に酔いしれながら、一気にラーメンを平らげてしまった。
体の芯から温まった私は、幸福のなかで放心することしかできない。
だから、同じくあっという間にラーメンを平らげた豪くんが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。
「俺さ、会社やめてラーメン屋さん始めるんだ。こういう魚介系のラーメンを、ロサンゼルスで」
スープと同じ黄金色に惚けた脳ミソで、豪くんの今の言葉をゆっくりと咀嚼する。
「豪くんが、ラーメン屋さんを」
残っていたスープを、もう一口だけどんぶりを持ち上げて飲んだ。深い味わいは、今度は鮮烈な味がする。
「豪くんが、ラーメン屋さんを。…ロスで?」
どんぶりを下ろすと、豪くんと顔を突き合わせる形になった。
豪くんの目は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
ラーメンをあっと言う間に食べ終わってしまった私たちは、それ以上とどまるのも悪い気がして、すぐにお店を出た。
深夜の池尻大橋から、私の部屋がある三軒茶屋までを、並んで歩く。
「さっきまで焼き鳥食べてて、そのままラーメンだったから、さすがに腹ごなししたい」
豪くんはそう言い張るけれど、私を家まで送ってくれているのは明らかだった。
「すごいね、焼き鳥のコースのあとにラーメンなんて」
「俺、ラーメンだったらいくらでも食べられるよ。あと鮨ね。今までも、けっこう深夜に行ってたよ」
「私とデートした後も?」
「うん。付き合い始めのころ何回か誘ったけど、覚えてない?市子は20時以降は絶対食べない!って頑なだったからね。いつも1人で行ってたんだよ」
「そっかぁ…」
豪くんは、もう会社に退職の意向は伝えていて、今月末にはロスへ行ってしまうらしい。
出張で何度もロスに通ううちに、豚骨系のラーメンは大人気なのに、魚介系のラーメンがあまりない様子を見て、どうしても自分でチャレンジしてみたくなった。そう語る豪くんの表情は、真剣そのものだ。
その顔を見ているとやっぱり、溺れそうなほどの悲しみに襲われる。
豪くんに「一緒にいても幸せになれない」と言われたことに対してじゃない。
せっかく一緒にいられた時があったのに、豪くんの好きなことを一緒に楽しめなかった。その、粗末にしてしまった宝物みたいな時間に対しての悲しみだった。
暗い深夜の街は、涙を隠すだけじゃなく、素直な気持ちを伝えることにも適しているらしい。気がつけばつい、思ったことが口からこぼれ出てしまう。
「そんなに食べ物に対しての情熱があるなんて、知らなかったな。ラーメンもお鮨も、もっと一緒に食べればよかったね」
「そうだよ。市子も付き合ってくれればよかったのに」
豪くんの冗談めかした言い方に、2人とも寂しい笑い声をあげる。けれど、次の瞬間だった。
「でもそしたら私、また高校の時みたいにぽっちゃりに戻っちゃってたよ。深夜に美味しいものをたくさん食べてたら、さすがに豪くんのタイプの細い体型ではいられない」
そう言った途端───空気が変わったのだ。
「え?細い体型って…俺のタイプが?」
「うん、豪くん。細い子が好きでしょ。高校の時、友達に聞いてもらったの。それ聞いてから20時半以降は何も食べないダイエットして痩せたんだよね。今だから言うけど私、高校の時からずっと、豪くんのことが好きだったから」
悲しみを隠すための笑顔を浮かべて伝えたけれど、豪くんは笑っていなかった。
一緒に歩いていた足が止まる。一歩後ろに止まった豪くんが、私に問いかける。
「いや、ちょっと…本当に待ってよ。俺…俺さ、女の子の体型なんて、全然気にしたことないよ」
「え?」
豪くんが何を言っているのか、またしても分からなかった。
私たちは別れた。豪くんはロスに行く。「よりを戻したい」という私のお願いの答えは、NOに決まっている。
それなのに───。
「俺も高校の時、市子が好きだった。市子…いや、いつも美味しそうに食べてる廣田さんのことが、ずっと好きだったんだよ。
いつか廣田さんと美味しいものを食べるデートができたらって…そう思ったのがキッカケで、俺も食べることが好きになったんだ」
「え?でも…」
豪くんも、夜の魔法にかかっているのだろうか。道は暗くて顔はよく見えないけれど、その声にもどかしさや歯痒さが滲んでいることが不思議と伝わってくる。
もしかしたら私たちは、もっときちんと話し合うべきなのかもしれない。
夜は長い。まだ時間は残されている。温かな鯛出汁のラーメンで、とことん話し合うエネルギーだってある。
「ねえ…」
気がつくと私は、立ち尽くす豪くんに言葉をかけていた。
豪くんを好きになってから、豪くんに好きになって欲しいと願ってから、これまでに一度だってかけたことのない、誘いの言葉を。
「もうこんなに遅い時間だけど───うちで何か、デザートでも食べていかない?」
▶前回:初デートも2回目も、いい雰囲気でも2軒目に行かずに解散する男。その理由とは?
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
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