◆これまでのあらすじ
早紀の夫・向井への気持ちに決着がつき、台湾人留学生ハリーへの想いに気づいた双葉。だけどハリーは、韓国に旅立ってしまう。
気持ちを伝えたい一心で、間に合うことを祈りながらハリーを訪ねた双葉だったが…。
▶前回:「考えさせて」と彼に突き放されて3週間。深夜の呼び出しで知った、男の本音とは
Vol.14 <双葉:羽田空港の煎餅>
銀座のはずれに位置するオフィスを出て、地下鉄を目指す。銀座線へと乗り込み、表参道駅で降りる。
高樹町──住所でいうと南青山に位置する私の部屋は、表参道駅のほかに広尾駅と乃木坂駅も使うことができるけれど、どの駅からも歩いて15分ほど離れている。
だから家賃がほんの少しだけ割安で、そこが気に入って選んだ。でもやっぱり残業でクタクタな夜にはあまり歩く気は起こらなくて、23時を過ぎるまで働いた今夜は、最も近い表参道駅から帰ることに決めたのだった。
でも実は…ここのところ毎日残業に明け暮れているというのに、表参道駅を使うのはすごく久しぶりだ。
どれだけ遅くなっても、煌びやかな表参道駅から帰るより、広尾駅から日赤病院近くの落ち着いた裏道を通って帰宅するほうが好ましかったのだ。
だって、少し前までのバレンタインムード真っ盛りの表参道は、私にとっては刺激が強過ぎたから。
表参道から青山には、あまりにもチョコレートの名店が多すぎる。
もともと甘いものが得意ではないうえに、バレンタインにチョコレートをあげる相手を失ってしまった今の私には、夜になってもどこか甘い香りが漂ってきそうな帰り道は、あまりにも残酷すぎたのだ。
平日の23時を過ぎた表参道は、すっかり人もまばらだ。
バレンタインと一緒に、東京らしい温暖化した冬も過ぎ去ってしまったとしか思えない。人けのない骨董通りには冷たい風が吹きすさび、私は思わずコートの襟を掻き寄せた。
「さむ〜…」
寒くて寂しい深夜の帰り道は、否が応でもあの夜を思い出させる。
会社の懇親会で韓国鍋を囲んだ後、ハリーの元へと駆け出した3週間前のあの夜もちょうど、こんなふうに骨まで凍ってしまいそうな寒さを感じていたから。
◆
「家行ってみたら?俺タクシー奢るよ」
向井さんにそう言われるがままに、飛び乗ったタクシーで私が向かったのは、ハリーの部屋がある渋谷だ。
井の頭通りから少し奥に入った宇田川の古いマンションには、一回だけ訪れたことがあった。ルームメイトを紹介したいと言われて、ホームパーティーに呼んでもらったのだ。
いつもいろんな友達が出入りしていて自由な雰囲気だという部屋は、たしかに言葉通りのようでオートロックもない。奇妙な焦りと高揚感に浮かされた私はマンションにつくなりエントランスを抜けて、ハリーの部屋のドアチャイムを鳴らした。
「ハイ〜」
開けられたドアの隙間から、男性が答えた。だけどその声は、ハリーの声よりも少し高くてアクセントが違う。
「アー、フタバさん!オヒサシブリ」
大きく開かれたドアからにょっきりと姿を現したのは、ハリーのルームメイトのインド人・クマちゃんこと、クマールだ。
「クマちゃん。覚えててくれたんだ、嬉しい。遅くに突然ごめんね」
この部屋でクマちゃんの手作りのインド料理を、ハリーと一緒にご馳走になった日が、ものすごく遠い昔のことのように感じた。
だけど今は、そんなノスタルジックな回想も焦りをとどめることはできず、私は前のめりにクマちゃんに問いかけるのだった。
「突然来ちゃってごめんなさい。ねえクマちゃん、あの…。ハリーって、もう韓国に行っちゃったのかな」
― お願い。どうか、部屋の奥にいて…!
心の中でそう祈りながら、クマちゃんが「ハリー、イマス」と答えてくれるのを期待する。
クマちゃんは日本でのお仕事もほとんど英語しか使わないらしく、ハリーと比べると日本語はあまりおぼつかないのだ。スローペースな会話に焦れながらも、私は声に出さない祈りを続けた。
だけど…。
クマちゃんからの返事は、やっぱり期待したようにはいかなかった。一生懸命日本語を絞り出すように答えてくれた言葉は、私の祈りを打ち砕いた。
「アア、カンコク…KOREA。ハイ、ハリー、行きました、シゴト。えーと、センシュウ」
「そっか…そうだよね。うん」
本当は、分かっていた。今夜こうして突然ハリーのもとを訪れたのも、そもそもがダメ元だったのだ。
納得しようとするものの、どうしても足掻くことがやめられない。私は泣きたいような気持ちで、クマちゃんに最後の質問を投げかける。
「あのさ。ハリーって、また日本に帰って来るのかな…?」
でも…。
クマちゃんは、そんなで縋り付くような私の問いかけに、なんとも言えない下がり眉の表情で首を左右に振るだけだった。
それ以上食い下がる元気も、理由もなくなってしまった私には、深くお辞儀をしてその場を去ることしかできなかった。
◆
悲しい回想に浸りながら歩いていたら、骨董通りもいつのまにか通り過ぎ、もう家は目と鼻の先になっていた。目の前の首都高下の暗い六本木通りを、タクシーばかりがビュンビュンと通り過ぎていく。
クマちゃんと話したあのあとも、渋谷からこの道を歩いて帰った。少しでも孤独を薄めてしまいたくて、コンビニで缶ビールを2本買った。たった今、私が買ったのと同じ銘柄の缶ビールだ。
同じような夜の暗さ、空気の冷たさに、まるでデジャブのような感覚に襲われる。けれどそれは、あくまでも錯覚なのだ。
時間は容赦なく過ぎていく。
ハリーはもう行ってしまったし、もう戻って来ることもない。
私の心だけが置き去りだった。気がつくのがあまりにも遅過ぎたから。
いつだってなぜだか、私の恋はこうなってしまう。
「…ハリー」
心底、自分で自分が嫌になる。気がつけば私は涙をこぼす代わりに、ハリーの名前をこぼしていた。
でも──弱気な声が漏れ出たその瞬間。どこかから、耳に馴染んだ声が聞こえたのだ。
「はい、双葉さん」
目前の自宅エントランスの前で、影が動く。生垣に腰掛けていた丸い背中が、ぐんと立ち上がる。
「!?」
驚きのあまりさきほどコンビニで買ったばかりの缶ビールの袋が手から滑り落ちたけれど、そんなことはどうでもよかった。
「ハ、ハリー?」
暗い夜の中で、ハリーが優しく微笑んでいる。それは、どれだけビールを飲んで酔っ払っても見ることができなかった、夢を見ているみたいな光景だったから。
「びっくりしましたか!」
ニコニコと微笑むハリーに向き合うのは、去年の末ぶりだ。
ハリーに会えたら、今度こそ想いを伝える。
渋谷の部屋を訪れた時にはそう固く心に誓っていたのに、いざ急に会うことができたとなると思い描いていたようには行動できないのが私の常でもある。
「好き」という言葉の代わりに私の口をついて出たのは、甘さのかけらもない質問ばかりなのだった。
「な…なんで?韓国に行っちゃったんじゃなかったの?どうしてここにいるの!?」
「はい。行って、それで今日帰ってきましたね。1ヶ月、長かったです。ほとんど毎週会ってた双葉さんに会えないの、本当にさびしいでした」
よく見れば、ハリーの隣には大きなスーツケースがある。
「だってクマちゃんは…」
そう言うとハリーは一層ニコニコしながら言うのだった。
「はい、今日空港について帰るの連絡したら、クマールが、『双葉さんがぼくにサプライズで会いに来てくれた』って教えてくれましたね。
今日はそのお返しで、サプライズで来てみたんです。双葉さんここまで送ったこと、たくさんありましたから。それに…」
そこまで聞いて私は、微かに思い出す。クマちゃんの手料理をご馳走になった時、たしか教えてもらったはずだ。
インドでは、YESの意味でも首を左右に振る──って。
「そんな…。1ヶ月って、韓国って、…ただの出張だったの!?」
ビールと一緒にへたり込みそうになる私を見て、話を続けながらスーツケースから何かを取り出そうとしていたハリーが、慌てて駆け寄る。
「双葉さん、大丈夫ですか?」
近づいてみてやっと気がついたけれど、心配そうにそう尋ねるハリーの方が顔色が悪い。私の背中に添えられた手からも、氷みたいに冷え切っているのが伝わった。
「ねえ、ここでどれくらい待ってたの?私が何時に帰るかなんて、わからなかったよね」
「えーと、夜8時に羽田到着でしたから…そこから直接来て、いま何時ですか?」
23時半だ。少なく見積もっても、ハリーは2時間以上はここで私を待っていたことになる。
「なんで…連絡してくれたらよかったのに!」
だけど、声を張り上げる私にハリーは、子犬みたいにキラキラとした楽しそうな瞳でイタズラっぽく言うのだった。
「双葉さんびっくりさせて喜ばせたかったですし、渋谷のぼくの好きな犬…ハチ公、もっと好きな人待ちましたね。
僕も、双葉さんのこと待つの好きですから。ハチ公の気持ちです。僕も渋谷に住んでますから」
「…ねえ、バカじゃないの」
これ以上ハリーの間抜けな言葉を聞く気になれなかった私は──。
「好き」という言葉の代わりに、ハリーの冷え切った唇にキスをした。
◆
ハリーが旅行道具を一式持っていたことは、私にとっては好都合だったのかもしれない。
ハリーを部屋に上げ、お風呂で体を温めさせる。さっぱりとして出てきたハリーは少し恥ずかしそうだったけれど、トランクから自分の部屋着を身につけると、ソファで隣に座ってくれたのだ。まるで、そうすることが当たり前みたいに。
― ああ、落ち着く…。
ただ、ハリーが隣にいてくれる。
スクランブル交差点でハリーを見失ってから、この2ヶ月ずっと探し続けていた気がする私は、ただそれだけのことがとても嬉しかった。
だけど──ひとつだけ、気になることがあった。
部屋着に着替えたハリーの膝の上に、紙袋がのっているのだ。なんの変哲もない、羽田空港でよく見る土産物の売店の袋。
「ねえ、それ何?」
尋ねるなりハリーはまた、褒めてもらえるのを期待している子犬の瞳を私に向ける。
「これですね。今日は、お返しでサプライズで来たのもあるですけど…もう一つ、大切な用事あって来たんです!」
そう言いながら取り出したのは、黒い化粧箱に入った贈答用のお菓子だ。
蓋を開けると3色の小袋が整然と詰められていて、それぞれの色ごとに、塩、味噌、醤油のフレーバー名が書いてある。
「羽田空港限定みたいなんです」
「お煎餅?」
「少し過ぎちゃったですけど…バレンタインは台湾では、男から好きな女の人にお花あげる日です。でも羽田空港、お花なかった。
チョコレートあげようかと思ったけど、双葉さんはビールが好きで甘いもの好きじゃないですから。これなら気に入ると思いました。甘くないお煎餅なんです!」
「えっ。私に、わざわざバレンタインのプレゼントってこと?」
ハリーが開けてくれた醤油味のお煎餅を、説明を聞きながら一口かじる。
お米本来の懐かしさが残る、おこげのような香ばしい食感。焦がした醤油の素朴な味わい。
ここのところコンビニのおにぎりばかりでまともな食事をしていなかった私の舌に、本当のお米のおいしさがふわりと広がる。
その香ばしくも優しい味わいは正直、「ビールに合う」というハリーの持論とは少しのズレを感じた。
でも、そばにいてホッとする人と一緒にいる時のような幸せな味がして…。
食べているうちにいつのまにか、ハリーと同じ優しい微笑みが私の頬にも浮かんでいるのだった。
「おいしいですねー。お煎餅なのに甘くないですよ。すごいです」
深夜の素朴なお煎餅を私がゆっくりと味わう横で、ハリーはひたすらに、少し興奮した様子でパクパクと食べ進める。
その様子を見ていた私は、もしやと思いハリーに尋ねた。
「ねえ、ハリー。…もしかして、台湾のお煎餅って甘いの?」
ハリーはキョトンとした顔を浮かべる。
「お煎餅って、甘いものですよね?」
「うーん。日本では、しょっぱい方が普通かも?」
「えっ」
パクパクと食べ進めていたハリーの手が、ピタッと止まった。
どうやら、本当に驚いているらしい。私から突然キスをした時も、何も言わずにただ優しく受け入れてくれたというのに。
その姿はやっぱりどこか子犬のように可愛らしくて、私は思わず、本当に久しぶりに大きな声をあげて笑ってしまうのだった。
「はあ…まだ、知らないことばかりですね。日本語もまだまだで、韓国のこともちゃんと伝えられなかった。これじゃ、だめですね…」
落ち込むハリーの手にそっと手を重ねる。
今こそ、きちんと伝えるべきだと感じた。
もう二度と、恋に間に合わなかった罪なんて重ねたくないから──ハリーの目を、まっすぐ見つめた。
「ねえ、だめじゃないよ。私、ハリーが好きだよ」
「双葉さん…。無理しないでください。知ってます、双葉さんずっと好きな人いるですね。僕、待てますから」
「そっか、気づいてたんだ…。でもね、今はハリーが好きなんだ」
「本当ですか…?」
「今までずっと、待っててくれてありがとう。もう、ハチ公じゃなくていいんだよ」
こんなにまっすぐな言葉で気持ちを伝えるのは、人生で初めてのことだ。
市子や早紀や…向井さんがこんな私を見たら、きっと私のことを双葉のそっくりさんかなにかだと思うかもしれない。あまりにも“らしく”ない素直さに、自分でも、心臓が飛び出そうなほどドキドキしている。
でも、ハリーは私の言葉を、まっすぐに受け止めてくれる。からかうこともなく、うたがうこともなく、ただまっすぐな笑顔で。
…2回目になるハリーとのキスは、もう全然冷たくなかった。
氷のような冷たさも、ジェットコースターみたいな激しい混乱もなく、ただただホッとするような素朴なお煎餅の味がした。
「双葉さん。大好きですから、だから…」
「だから?」
「バレンタイン、もう一回やり直させてください。知ってますか?台湾には7月ももう一回バレンタインありますね」
「えぇ?そうなの?」
「きっと7月には、またおすすめのお菓子プレゼントできると思います。ビールに合うお菓子です」
「このお煎餅だって、最高に美味しいよ。でも、そのお菓子も楽しみ」
昨日までの夜が嘘みたいに、穏やかな時間が流れていく。とりとめのない会話が、どんなご馳走よりも私に元気を与えてくれる。
ハリーがそばにいてくれるなら、私はもう大丈夫だ。
どんなに冷たい夜もきっともう、寒さに震えることはない。
▶前回:「考えさせて」と彼に突き放されて3週間。深夜の呼び出しで知った、男の本音とは
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
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市子の元に駆けつけて、ラーメンを食べた豪。その直前、深夜まで一緒に焼き鳥デートをしていた栞は…

