◆背後の席から「サーモンがこない」と聞こえ…
異変に気付いたのは、トイレに行こうと席を立った時だった。
ふと後ろの席を見ると、小さな子どもを連れた夫婦が座っていた。4歳くらいの男の子が、じっとレーンを見つめている。その視線の先には、子どもが避けそうなネタばかり。
「サーモン、こないねぇ」
男の子が小さな声で呟いた。その瞬間、健一さんはハッとした。自分のテーブルには、先ほど確保したサーモンの皿が5つも並べられている。しかも、まだ誰も手を付けていない。
反射的に親の方をみると、若い父親と目が合ってしまう。何も言わず、健一さんのテーブルを覗くように見ると、静かに視線を逸らした。その表情は、怒ると言うよりも、諦めたかのような感じに近かった。
「マナーの悪い客に対する、静かな軽蔑って感じ。あの時の表情は忘れられません」
上流にいる自分たちが根こそぎ取ってしまえば、後ろの彼らには何も届かない。注文すれば良いとは思いつつも、目の前に流れてくるお寿司を取るワクワク感を奪っていたのは、間違いなく自分だった。
◆自らの浅はかな行為を大いに反省
席に戻った健一さんのテンションは、完全に冷めていた。「あれ?パパ、どうしたの?食べないの?」
「いや、ちょっと取りすぎたかなって……」
その後、レーンに流れてくる皿には一切手を付けられなかった。サーモンが流れて、小さな子どもが食べるのを見届けるまでは、自己嫌悪でいっぱいだったようだ。せっかくの外食の機会を台無しにしてしまった。
「家族のためという、大義名分があると周りが見えなくなるんですよ。本当に申し訳ないことをしたと思っています。あれ以降外食に行く際には、ほかのお客さんを気にして行動するようにしています。もう、あんな罪悪感は二度と味わいたくないので……」
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誰かを喜ばせたい純粋な想いは、時に客観的な視点を奪い、独善的な振る舞いへと繋がってしまう危うさを秘めています。自分の幸福が誰かの欠乏の上に成り立っていないか。その想像力を持つことこそが大切なのかもしれません。
<TEXT/maki>
【maki】
ライター・エッセイストとして活動中。趣味は人間観察と読書。取材からエッセイ、コラムまで幅広く執筆している

