◆これまでのあらすじ
正輝(30)と萌香(27)は、付き合って8ヶ月。健気な萌香のことを可愛らしく思う正輝だが、萌香は正輝が異性の大親友・莉乃(30)と仲がいいことを快く思っていなかった。
その気持ちを素直に萌香から伝えられた正輝は、「もう莉乃と親密な連絡は取らない」と萌香に約束。
一方の莉乃も、彼氏の秀治から注意されたこともあり、正輝とは密な連絡を取らないことを決意していた。しかしその矢先、萌香が知らない男性とホテルに行くのを目撃してしまい…。
▶前回:「え、ここ?」男友達と恵比寿で飲んだ夜。タクシーで帰ろうとしたら、連れて行かれた意外な場所
Vol.9 <正輝>
業務用の大きな冷蔵庫からキンキンに冷え切ったビールを2本取り出し、俺はダイニングに向かって問いかける。
「リョウさんも飲みます?」
冷蔵庫が業務用なのは、母親がこの家でおもてなし料理教室を営んでいるからだ。
麻布十番の1LDKとは違う実家の広々としたキッチンで、俺はひと足先に缶ビールを開けて口をつける。
その瞬間、ダイニングのリョウさんから返事が返ってきた。
「いや〜僕はいいや。マリコちゃんも今飲めないから」
「OKっす」
そう言って俺は、缶ビールを一本冷蔵庫に戻す。背後で料理中の母親がしみじみとつぶやく声が聞こえた。
「本当、リョウくんみたいな人にお嫁に貰ってもらえて、マリちゃんは幸せ者だわ」
「“お嫁に貰ってもらう”って…発言古すぎでしょ」
息子らしく表面だけの軽い反発をしてみるものの、本音の部分では俺も全く同感だった。
キッチンでビールを飲み進めながら、ちらとダイニングを覗く。
小さいころから威張りやで情緒不安定気味だった姉貴が、今はリョウさんの隣で、まるで別人のように穏やかで優しい顔つきになっているのだから。
「さ、ごはんにしましょ」
そう言って母親がテーブルに並べたメニューは、秋刀魚の塩焼きや煮物、炊き込みごはんといった、10月の秋真っ只中といったものばかりだ。
「お母さんのごはん嬉しい〜!妊娠してから、こういう和食の方が好きなんだよね。これからしばらくこんなごはんが毎日食べられるなんて最高♡」
大きなお腹を撫でながら、姉貴が嬉しそうに飾り切りされたにんじんを口に入れる。
今夜は、年末にお産を控えた姉貴の里帰り初日なのだ。
日頃は商社の駐在でベトナムにいる姉貴夫婦だけれど、今週1週間だけはリョウさんも日本にいられるということで、俺もこうして久しぶりに吉祥寺の実家を訪れた。
それなのに…。
日曜のゴルフ渋滞で帰宅が遅れている親父の分も、リョウさんとの会話を盛り上げよう。
そんな俺の密かな意気込みに水を差されるような状況が、テーブルの下で密かに起きていた。
リョウさんの仕事内容の話を聞きながら、俺はチラリと目線を下にやり、スマホを確認する。
『何してるの〜?』
『不在着信』
『今日のランチはパスタでーす』
『土日会えないのってさびしいね。。』
『不在着信』
『何時くらいになったら電話できる?ご実家なんだよね?』
昼過ぎから断続的に来ている連絡の送り主は、全て萌香だ。
姉貴夫婦を羽田まで迎えに行ったりしてバタバタしていたら、気がつけばすっかりスマホをほったらかしすぎてしまっていた。
― まずいなぁ。これはかなりスネてる…。
食事が終わったらすぐに返事をしようと思っていたものの、この30分で泣き顔のスタンプが3つも送られてきている。
いよいよ食事に集中できなくなってきたため、まずは一通『今食事中だから後でね』とでも返そうとした、その時。
姉貴が、昔から変わらない不敵な笑みを浮かべて言った。
「正輝、なんかソワソワしてる。さては彼女でしょ」
姉貴はいつもこうなのだ。妙に勘が鋭くて、俺の恋愛事情はすぐに筒抜けになってしまう。
「あー…。まあ、うん。そうだね」
俺がそう答えるなり、姉貴と母親が同じテンションで食いついてきた。
「やっぱり!どんな子なの?」
「やだ正輝、そんな人がいるならお母さんにもちゃんと言いなさいよ」
「いや…そんないちいち言わないだろ」としどろもどろになっていると、またしても萌香からのスタンプでスマホが震えた。
突っ込まれたタイミングでうっかりテーブルに出しておいたスマホの画面が、姉貴の好奇の目に晒される。
連続の通知を示す画面を見た姉貴は、昔を懐かしむような遠い目をして言うのだった。
「なるほど、これはかなり手がかかるタイプの子と見た」
「正輝、そうなの?」
女性陣2人につめられながらも、俺はどうにか弁明を試みる。
「いや、別に特別手がかかる子ってわけじゃないよ。俺が今日は連絡を放置しすぎただけ。いい子だよ」
「そうなの?でも、めちゃくちゃ連絡来てるけど」
その瞬間また震えたスマホをそっとテーブルの下に引き取りながら、俺は答えた。
「休日は基本的に会うのが当たり前になってたし、夜には電話することになってるから。まあ…ちょっと寂しがり屋ではあるね」
「あらぁ〜」
― あ〜、これだから実家は…。
母親の意味のわからない嘆きの声を炊き込みご飯をかき込むことで受け流していると、姉貴は今度はイタズラっぽい表情を浮かべていた。
そして突然、突拍子もないことを言い放つ。
「正輝もさ、早く結婚しちゃえばいいのよ」
「…え?」
炊き込みご飯が喉に詰まりそうになった俺は、つかえながらも姉貴に聞き返した。
しかし、姉貴は全く動じない。
それどころかしみじみと感じ入るような様子で、隣のリョウさんの腕にしがみつきながら主張を強めるのだった。
「そういうメンヘラっぽい感じの子はね、とにかく今の関係が不安なの!結婚したらケロッと安定したりするのよ。
私も結婚がちゃんと決まるまでは、リョウくんにこんな感じで連絡しまくってたよねぇ〜」
「あはは、たしかにマリちゃんそういうとこあったかも」
姉貴の恋愛事情なんてリアルに想像したくもなかったけれど、しがみつかれている側のリョウさんの困ったような笑顔を見ると、きっと姉貴の言う通りだったのだろう。
「へえ、そういうもんかな」
姉貴に適当な返事を返しながら、萌香が打ち明けてくれた悲しい過去を思い返す。
たしかに…萌香がこんなに寂しがり屋なのは、きっと俺には気づけないような色々な不安を抱えているからなのかもしれない。
“男女の友情”を隠れ蓑に裏切られていたという経験は、1人の女性の心を不安で染めてしまうのに十分過ぎるほど辛いものだと思う。
毎日電話を欲しがるのも、突然の部屋にやってくるのも、毎週末のデートを求められるのも───そして、莉乃への嫉妬も。きっと、不安が萌香をそうさせるのだろう。
莉乃と連絡を絶ってからというもの、俺の空き時間のほとんどは萌香に費やされている。
ただでさえそんな状態だったというのに、9月の半ば頃だっただろうか。
「陰でこっそり莉乃さんに会ったりしてないよね?」
一度だけそんなふうに聞かれたことがあってからは、なるべく萌香を安心させたくて、それまでにも増して仕事の後の時間も、土日も祝日も、萌香のために使うようになった。
正直に言えば、疲れを感じることもある。
でも、勇気を出して過去の辛い恋愛経験を打ち明けてもらった以上、俺だけは萌香をとことん安心させてあげたいというのが決意なのだ。
萌香を幸せにするなら、できることはなんでもする。
萌香が嫌だというのなら、親友と2人で会えなくなる決断だって、少しも迷うことはなかった。
「結婚かぁ」
何気なくこぼれた独り言だったけれど、口にしてみると意外にも確かな感触があった。
雙葉のお嬢様育ちの萌香は、同棲はご両親が許さない。もしも一緒に暮らすとなったら、結婚することになるだろう。
もし萌香と結婚したら、家に帰れば萌香がいるのだ。電話も、家に足を運ばせることも、今何をしているかを報告する必要もない。
だって、家に帰るだけで萌香を安心させてあげられるから。
そうだ。今のこの少しばかり窮屈な状況は、結婚することで純粋な幸せに姿をガラリと変えるのかもしれなかった。
「赤ちゃんが生まれる上に、正輝も結婚となったらおめでたいわねぇ」
想像にふける俺の横で、母親が夢見心地でつぶやく。
「お母さん、正輝には莉乃ちゃんみたいな子がお嫁に来てくれたら安心なんだけど」
「莉乃?」
思いがけず母親の口から出た場違いな親友の名前に、思わず味噌汁を吹き出しそうになってしまった。
「それはないって。莉乃とはただの友達だし、あいつは結婚しないポリシーだから。最近はもう、全然会ってないし」
「そうなの?」と返す母親に、俺は箸を置いて向き直った。そして、たった今確信を深めたアイディアを、早速共有する。
「うん。しばらく姉貴もいることだし、今度ちゃんと彼女連れてくるわ。
ちなみに、莉乃とはタイプが真逆の子だから…今みたいな話は冗談でも絶対に彼女にするなよ」
「キャー!」と盛り上がる女性陣を無視しながら、俺はもう一度テーブルの下でスマホを開く。
― そうだ。早いところ、萌香を安心させてあげよう。
ほんの少し億劫に感じていたLINEの返信も、そうと決めればなんてことはなかった。
『こ、の、あと、すぐ、に、電話す、る…っと』
メッセージを打ち込みながら、心の片隅で考える。
この2ヶ月、莉乃とはすっかり音信不通だけれど───結婚式に呼ぶことくらいは、萌香もゆるしてくれるだろうか。
▶前回:「え、ここ?」男友達と恵比寿で飲んだ夜。タクシーで帰ろうとしたら、連れて行かれた意外な場所
▶1話目はこちら:「彼氏がいるけど、親友の男友達と飲みに行く」30歳女のこの行動はOK?
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萌香が他の男とホテルに行ったことをしらないままの正輝。目撃してしまった莉乃は…

